《「白い奴」は「戦場」を駆ける》

1979年、宇宙世紀0079。「機動戦士ガンダム」は、まだ僕が知らない時に主人公「アムロ・レイ」の操縦によって『日本に立った』。その名を知り再放送を見る頃には、「ニュータイプ」として覚醒した「アムロ・レイ」のように「ジャパニメーション」の中核となってその世界を揺り動かす存在となっていた。10代の僕の心も揺り動かし熱中したガンダム。しかし社会人となった時、ややその熱も冷めて遠ざかってしまった。

思い通りにならず、近づく人々に翻ろうされているような自分の生活の中で、僕は再び「ガンダム」に戻って来てみた。幾世代と乗り継がれたそれぞれの「ガンダム」は、いまだに混沌とした「戦場」の中で「白い軌跡」を描いて翔び続けていた。彼ら自身が世界を変えるわけではない。しかし波入る強敵を振り払い、諸悪の権化に一糸報おうとする「ガンダム」の戦いが、僕の夢への道を歩む力を与えてくれるのだった。

放映より22年。「ガンダム」は、今も「戦場」を駆ける!

《炎のランナー

()

1981年3月。地下鉄御堂筋線始発。前日友人宅で夜を明かした僕達は、眠い眼を擦りながら千里中央駅より大阪の梅田駅へと向かった。会場には一体どれぐらいの人数が集まっているのか見当も付かなかった。やや不安を抱きながら電車に揺られていた。コミック系やプロレスなどのイベントに参加した事のある人ならば、心当たりがある経験かもしれない。僕達は直感で、ふと同じ電車に居合わせたある集団が、「同じイベントに参加する人達」である事が判ってしまったのだった

(ニュータイプ同士の共鳴か?笑)

彼らとは上映待ちの行列の前後を争わなければならない。僕達は合図を交わし、地下鉄が梅田駅に着くと同時に走り出していた!案の定、相手の集団も走り出した!約800メートルはある「泉の広場」までの地下街を、全力疾走で駆け抜ける!こういう時の先陣を切るのは、当時陸上部員だった僕の役目だった。相手の方にも、独り僕と並んで走る奴がいた。「泉の広場」に着く頃にはもう息が切れ切れだったが、ここより地上の「梅田ピカデリー」に出る階段があり、それが正に「心臓破りの階段

()」となった。足が鉛のように重くて、思うように駆け上がる事が出来ない?!しかし僕はここで「ど根性」を見せて、見事相手集団の「エースパイロット」に勝ったのであった()

既に「梅田ピカデリー」には、5階までの階段から外へ50メートルほどの行列が出来ていた。予定時間より一本分繰り上げてロードショウは始まり、僕達は2回目の上映をホールの階段に座って観たのだった。「劇場版

機動戦士ガンダムT」である。

 

《僕よ叫べ

()!》

僕自身はモデラーではなかったが、友人達の「ガンプラ」の行列要因としてよく同行していた。「東映パラス」のビルにあった、今はなき「アニメポリスペロ」での「ガンプラ即売会」での「一人2個まで」と言う販売制限にブーイングをしたり、「阪急百貨店で特売会がある」と言う「デマ情報

()」に躍らされて、開店前の入口に並んで待っていたりもした。

その帰りの事、同期のある不良生徒達と出会い、「どこに行っていたのか」と聞かれたので「ガンプラを買いに行っていた」と応えた。

「エエ歳して、ガキが観るようなモン観んナよ。」

と言われた。

『ヘェー、じゃああんた達はそんなにいいもの観てンの?!』

…これは僕の「心の声」だった。

《「人と意志の攻めぎ合いのドラマ」である》

「海のトリトン」や「無敵超人ザンボット3」などの様に、それまでは「勧善懲悪」だった「TVアニメ」に、「正義」と言われる主人公側にも「悪」や「罪」が含まれる事を本格的に描き始めたのは富野喜幸さんだった。対立する「悪」と言う物にもそれに至るまでの理由があり、その「対戦」は双方の「イデオロギーの決着」をつける為の戦いなのであった。それが「人類同士の戦争」を舞台とし描かれ始めたのは、「機動戦士ガンダム」からであった。

富野さんの作品の主人公は、本人の自覚もなく「戦争」に巻き込まれるケースが多い。「ファースト・ガンダム」の「アムロ・レイ」もそうである。始めは自分に課せられたその任務に反発しながら、最後は自分なりの使命を受け入れて強くなっていく。現実の社会人が、社会や生活に押し流されながらも自らの行く道を見つけるかの様に。富野さんの描く「戦争」を起こす者は、「自分達の理想の為に他者を滅ぼす人々」である。主人公やその周囲の人々は、その「行き過ぎた行為」に危機感を抱き、彼らの「抑止力」となって戦い始めるのであった。

登場人物をより多く取り上げ、それぞれにある「人生観」を背負わせて個性的なキャラクターとしたのは、僕のイメージでは「ガンダム」からだったと思う。各キャラクター達のエピソードをコラージュのように貼り合わせながら、物語の時間軸が進行していく。それは富野さん独特のスタイルとも言える。日本の映画やドラマなどにおいて、彼と同じ様なスタイルでここまで深く描き切った(未完の物も多いが笑)作家を僕は知らない。

「スーパーロボット大戦・シリーズ」をやっていて思うのだが()、富野さんのキャラクターぱ「戦闘中にそんなに喋れるのかよ?!」とツッコみたくなるほど良く喋る。それは「戦争」という舞台に置き換えた「人と意志の攻めぎ合い」や人物の「心の叫び」をストレートに表現するの場面であるからである。これを簡単に切り取って「決闘」としてやったのが、「少女革命ウテナ」ということになるかもしれない。

最近はアニメ作品内の「人物の死」に対する批難の声もあり、富野さんも簡単には登場人物を殺さなくなってきた。インタビューとかでも語っているが、人はその死の瞬間に最も本性が現れ、また一つのエピソードとメッセージを終わらせる事が出来るのである。時に「イデオン」や「Vガンダム」では、ある意味で「戦争のむごさ」を表すかのように子どもや女性がそれこそポンポンと()死んで行く場面を描いたりしていた。キャラクターの「人生観」のインパクトは、アニメーション故に出しうる「特異性」と「ディフォルメ」、「戦争」という舞台を利用した「キャラクターの死」による所が大きい。しかし同じ「ジャパニメーション」でも、富野さんほど人物を色々深く表現した人はいないと思うのである。

《「時の涙」を流す()

高校1年生の頃。当時「宇宙戦艦ヤマト」は、「愛」と言ってはバンバンと乗組員に「特攻」をさせ、「さらば宇宙戦艦ヤマト」と言いながら次回作を発表した。「月刊OUT」では、「ゆうきまさみ」先生が「ダイターン3」を使い「愛」を「受(ウケ笑)」ともじって「パロディーマンガ」を描いていた。「ガンダムの続編」が明らかになると、オタクでもない一般生徒達からも「ガンダムもヤマトみたいになるのか」、と言う批判の声が聞かれた。僕はその反応に不安を感じつつも、放映が開始した「Zガンダム」に感動してのめり込んでいった。

高校3年生。年上の彼氏がいることが判っていたが、我慢できずに好きになった女の子に告白して玉砕する(笑)。その夜、布団でメソメソ泣きながら「水の星へ愛を込めて」を歌っていた。隣の部屋で寝ていたオヤジは、黙って入って来て僕の口に手そっとを当てて塞いだ。

《「ニュータイプ」はエスパーではない》

「ニュータイプ」と言う設定は、「ファースト・ガンダム」の後半を盛り上げる為のギミックとして誕生したと、富野さんは言っている。僕的富野説ニュータイプの解釈は、瞬間的な人間同士の意識の同調によって、相手の意志が理解できる能力に秀でた人、である。それが「モビルスーツ」を中心とした「戦場」での発現が著しかったが為に、「兵力の向上につながる」と利用される結果とってしまったのである。瞬間的に相手の意識を読み、その動きの「先回り」して防ぎ、反撃を加えるという訳だ。

富野さんは作品の中で、「ニュータイプはエスパーではない」と何度もセリフで言わせている。誰にでも覚えのあるような「勘」のような物なのだろうか。クリエイティブな活動をされている方なら経験があると思う。アイデアと言う物は論理立て手組み立てていく物もあるが、別に何の根拠もなく「いきなり頭に浮かぶ」事も良くあるのだ。感覚的にはそれに近い物なのだろうか?

「ファースト・ガンダム」のラストでは、「時間も支配できる」とか、「アムロ・レイ」が強力にテレパシーみたいに意識を飛ばしてア・バオア・クーからクルーを導いたりと、「人間の未来の可能性」や「希望」を匂わせる誇張したものとなってしまった。しかしこの「ニュータイプ」とて「人とのコミュニケーション」をテーマにした、アイテムの一つであったのではないだろうか。「もっと人の事をわかれよ!」と言う富野さんのストレスの産物、とも言えるかもしれない。その才能でエースパイロットになった「アムロ・レイ」であっても、「興味のない事」や「都合の悪い事」は「感じ取らない」。あくまでもある種の「勘」が冴えているだけに過ぎず、それを司っているのは「普通の人間」であると言えるのではないだろうか。「相手を理解する事」、「新世代や才能の象徴」等を描き出す為の物だったと考えている。

《「ニュータイプ」と「強化人間」の人間関係》

これが「Zガンダム」になると、「オールドタイプ」の「ニュータイプ」に対する「羨望」や「劣等感」の象徴として「強化人間」が現れるこことなる。そしてそれは、異質であるのに「カミーユ・ビダン」ら「ナチュラル・ニュータイプ」に共鳴・干渉して悲劇を生んだ。この「強化人間とニュータイプ」の関係の中で、決して円満に行くだけが「人のつながり」ではなく、お互いに人の人生に「干渉し合う人間関係」とか「理屈抜きで引かれ合ってしまう人間関係」などを富野さんは模索していたように思える。更に「強化人間」は、「オールドタイプ」の「願望に歪んだ解釈の誤り」を示している様で面白かった。

《「ニュータイプ」はどこへ行った?》

だが「Vガンダム」では「エンジェルハイロウ」を中心して「サイキッカー」達を登場させたり、「ガンダムX」では「ニュータイプ」が明らかに「エスパー」として描かれていたりした。「ターンA」では、富野さん自身も「ニュータイプ」について語らなくなってしまった。「08小隊」「0083」「Gガンダム」「Wガンダム」で、「ニュータイプ」はその話の中心に出てくる事はなかった。他の作家達は、共に「ニュータイプ」という「世界観」を膨らまそうとしていた富野さんに対し、それを消化しきれなかったのか、「戦記もの」としての「ガンダム」が描きたかったのか。途中で「ニュータイプ論」は破綻してしまったように見える。しかし僕の考えでは、「ニュータイプ」は「人と人のコミュニケーション」を表現するアイテムの一つでしかない。それらを描き切れなかった「作家の力量」というものもあるのではないかと思っているのだ。それが富野さんと他のアニメ作家の違いであると、僕は言いたいのだ。今後の「ガンダム」には、「ニュータイプ」は現れないかもしれない。個人的には非常に残念であるが…。

《新ニュータイプ説!》

これとは別に、「ニュータイプ論」を展開している人がいる。彼が言うには、「ニュータイプ」とは「ミノフスキー粒子を操れる人」であると言う。非常に面白いので、何時か発表して欲しいと思っている。

 

《僕達の映画鑑賞会》

美術系短大生だった頃。生徒達には不評だった絵画教授の「名画鑑賞会」(しかし映画自体は「名作であった」と後に気がついたが笑)。これに我慢が出来ず、僕らは学校に掛け合って視聴覚室を借りて「ビデオ上映会」を行った。その時のプログラムは「THE IDEON」と「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」だった。

《テーマを背負って生きている》

しかし現実でも人と言いうものは、各々無意識の内にある「テーマ」を背負って生きていると感じる事がある。私事ではあるが例えば自分の父などは、長男はNTTの社員、三男は高校教師と、ある意味学歴・職歴的には優等生な感のある兄弟に挟まれ、学歴的には遥かに劣る自分が「別の手段で上回る」ことに力を注いだ事が原点になっているのではないかと思えるのだ。「一丁の豆腐を三人で分けて食べた」とか、当時の背景もあるが若い頃に苦労を重ね、絵画やその時代で先駈け的な「服飾専門学校の男子生徒」として学んだり、20代の始めごろには自分の「縫製工場」を持ち、「オーダーメイド」から始めたお店を高級既成服である「プレタポルテ」が日本に紹介されるとそれに乗り換えたりと、野心的なライフスタイルを送ってきた人であった。

現在もやや事業の方は置き去りにして(笑)大阪府や地元の団体で役職に就き活動しているのも、「自分の存在を認められたい」「肩書きコンプレックス」を克服したいという父の強い欲求が源になっているのではないかと感じるのだ。政治家になる夢もあったのか、僕の実名の「茂」は「吉田茂」から来ている。

僕も「父の子」として、地元で同じ様な境遇を味わう事となってしまった。容易に人を蔑み、批難や妨害はしても、自らは何も起こせないと言う人は非常に多い。誰にでも、「敵」と思える人物は多く現れる事だろうと思う。僕がその時に考えたのは、「本気で戦う相手と場所は選ばなければならない」ということだった。僕自身には「学歴・職歴コンプレックス」も、社会的にも経済的にも成功したいと言う欲求も強くはない。しかし自分の息子なりが、同じ様に僕が無意識に背負っている「テーマ」を見つけるのかもしれない。

《「シャア・アズナブル」と「アムロ・レイ」》

たとえば「逆襲のシャア」に至った「シャア・アズナブル」は、「アムロ・レイと決着をつける」という人間になってしまったのだ。「人類は地球に償わなければならない」等、対外的な主張を掲げても、それは「アムロ・レイに向けられている」とも考えられるのだ。「ララァを取り戻す」事、「自分の主張が受け入れられる」事、そして深く地球人に失望しそれを滅ぼそうとする「自分を止めて欲しい」という願い全てが、「アムロ・レイに向けられている」のである。対して「アムロ・レイ」と言えば、今は暴走を始めた「シャアを止める」事に力を注いでいるが、シャア自身に対して能動的に想いを持っている訳でもない。さすがに「ファースト・ガンダム」の主人公という事もあるが、シャアにとっての「アムロ・レイ」はそれほど大きな存在だったのだ。「Zガンダム」の「ジェリド・メサ」にしても、そうであった。本人もセリフで言っているが、「カミーユを越えなければ一歩も進めない」人間になってしまったのだ。ラストあたりのジェリドは充分強かったのだが、ただ「越えなければならない壁が大き過ぎた」のだった。

客観的に見ると、これは非常に恐ろしい事である。シャア個人の因縁によって、あの大戦争は起きてしまったのだ!しかしこれは現実でも充分に有り得る話であると、僕は考えている。どんなに「地球規模の視野に立った国際組織」を作ったとしても、それを治めているのは「小さな人間」なのである。社会は「理性」よりも「欲望」によって強く動かされていると感じるのだ。富野さんは、こういった「人の因縁」を確信的に描いているのではないかと思える。

《古い地球人よ!》

「あの人は<オールドタイプ>ですから。人の気持ちがわかんないんですよ!」

これは僕が某「地域に明るく豊な社会を築く」団体に所属していたときによく使ったセリフである。自分達の立場ばかりを気にして、担当者の苦しみに手を差し伸べようともせず文句ばっかり言う。相手を思いやらなければ、「ニュータイプ」だって相手の気持ちは分からない。能力ではなく、その人の「生き様」の問題だ。何故そんな人ばかりが「奉仕と修練」の団体に所属しているのか、とうとう僕には理解する事が出来なかった。

《人が「黒歴史」?》

「Vガンダム」「クロスボーン・ガンダム」「ターンAガンダム」あたりになると、「ニュータイプ」と言う設定があるものもあるが、それよりももっと人そのものを過激に表現する事に力を注いでいる様にも感じてきた。「ターンA」では、ある意味「人の進化」を否定してしまった様にも思える。「ニュータイプ」と言う「人の進化の可能性」を諦め、「人は同じ過ちを繰り返す」という定義の中から「人の心のすれ違い」や「人の心のゆがみ」とその人々の苦悩を描き出そうとしているのか。「ニュータイプ」が特種なのではなく、「人そのもの」にもっと「異常」なものが潜んでいる事をデフォルメして表現しているようにも見える。更に「ターンA」では、より拡大された社会の中での「人の影響力」と「人の可能性」を模索しているようにも感じ取れる。それは「ニュータイプ」と言う「安直な道」を避けて、真っ直ぐにテーマとドラマ作りに挑んで行く姿勢とも取れる。

それまでの「宇宙世紀」の「ガンダム」を、富野さんは「黒歴史」と呼んでしまった。しかし現世界の人間の歴史も「抗争の歴史」であり、今も生き残りをかけて「企業」や「国家」は「競走」を続けているのである。「ターンA」と「ターンX」は、お互いのその力を消し合い大地へ消えてしまった。それは終わりのようでいて、始まりのようでもある。今までの「ガンダム・ワールド」を否定しているようでいて、いまだにあらゆる「ガンダム」を生み出す可能性を残している。大地を「戦闘兵器」として駆ける「ガンダム」も、宇宙世界で「超未来のマシーン」として駆ける「ガンダム」も…。

《「白い軌跡」よ永遠に!》

多くの作家達が手掛けてきた「ガンダム」である。僕には「好きなガンダム」も「嫌いなガンダム」もある。しかし全ての作品で通じている事は、「白い機体ガンダム」は、その混沌とした「戦争の世界」で、夢と正義を背負って戦う主人公が乗る「ガンダム」であるという事である!これからも「ガンダム」は生れるだろうが、「白いガンダム」にだけは「美しい心の人」が乗って欲しい。

「ガンダム」は、ただの「バトル・アニメ」ではないのだ!!

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