『市民文化祭』と演劇、衣装とか色々〈第2回〉

《ドレスが作れるのか?!》

第1回目の開講となった『舞台衣装講座』は、『市民オペラ〜椿姫』の内容に沿った衣装を製作する為のものだった。それまでも「市民文化祭」での舞台を観ていたので、大体の「舞台衣装」と いうものは見当が付いていた。通常の普段着よりは縫製が簡略化されていて、それがまたイメージの世界が舞台となると、そのデザインは奇抜なものとなっていく。しかしそういった物は、専門学校時代からいくつも作ってきた事なので、特に今また同じ事をする気にはなれなかった。それよりは、一人の人が実生活でキチンと着れる服をキチンと作る事の方が、自分にとっては重要な事だと思っていたのである(正直に言って、今もそれが充分に成されているとは言えない)。

しかし今回特にそそられたのは、「オペラ」の衣装である、ということだった。「オペラ」に関して予備知識があったわけではないが、通常よりは装飾的なものになるだろうとは感じていた。「椿姫」の内容事体は、恥ずかしながら知らなかったのだが、どうも「オートクチュール」が真っ盛りであった「社交界」の世界のお話ではないだろうかと。

以前よりは遥かにウキウキとした気分で講義に臨んだ。今回講座の担当となった衣装デザイナーの先生も、まだ講座自体の進行を手探り状態で進めているような感じであった。とりあえず服飾史やデザイン画の描き方の基礎などの授業を経て、主人公である「ヴィオレッタ(読んだ小説ではマグリットだった)」のイメージで衣装デザインを次回までに描いてくる、という課題が出たのであった。この時「市民文化祭」担当の事務員さんが、

『舞台で使うかもしれない』

と言った事が、ぼくの闘志に火を点けてしまったのだった。

「ドレスを作る事になるのか?!」

1840年代の社交界のドレスを作るのか!!と、心が踊る様な気分になってしまったのであった。「コルセット」を点けて、中に「鳥カゴ」のように骨組のペチコートを入れたバッスル・スタイルなどのドレスである。この時代の貴族階級に関わるの女性達は、社交界で競い合うように自分達のドレスを華飾にしていた。刺繍、ビーズ、フリル、貴金属と、贅を尽くしまくった衣装である。実質専門学校では満たされなかったものを、今体験できる機会に恵まれたのだ。

しかし少し不満だったのは、東京より夢敗れて引き上げて4年間、実家の仕事と「明るく豊かに社会を築く」某団体の活動に忙殺されていたぼくは、それに見合うだけの感覚と技術が身に付くどころか衰えてしまっていた事であった。絵でもなんでも、日々の修練を怠ると日ごとにそのレベルが落ちてしまうものである。自ら物を作る事をあまりしない人々には、この感覚が理解されない様である。今、ようやくパソコンをいじって絵もどきなんかを描き始めてみると、色感とかも随分鈍ってしまった現実を見せられて深く反省する日々である。

《「椿姫」の衣装?》

オペラのビデオも映画も手に入らない為、デュマ・フィスの小説を読んだ。

オペラ座の予約席に『椿』の花束を置く事から『椿姫』と呼ばれたマグリット・ゴーティエ。彼女は自らの美貌で、伯爵達の娼婦として生きる女性だった。肺を患い、余命知れぬ身体となった時、青年アルマンと出会い、真実の愛に目覚める。華々しいパリから離れ、二人は深く愛し合うが、互いの生きる世界の違いが悲しい結末に導く事になる。

息子の将来を案じたアルマンの父は、マグリットに別れを請うのであった。彼女はアルマンの将来の為、彼が留守の間にパリの社交界に戻っていくのであった。真実を知らずに彼女を追ってパリに戻るアルマン、彼の怒りの行動がマグリットの心を苦しめる。

床に伏せるようになり、自らの死期を悟ったマグリットは、今一度アルマンとの再開を願った。しかし彼が真実を知り、職場を定めた遠方より駆けつけた時には、彼女の息は絶えていたのであった。

オペラでは、マグリットの死に際にアルマンとの再会は果たされ、その場面が山場となる。配役の名が変更されていて、「マグリット」は「ヴィオレッタ」、「アルマン」は「アルフレッド」になっていた。

現代服ではなく、ロココ時代の衣装なので、服飾史などの資料を見ながら感じをつかもうと思ったが、結局他の用事に押されてしぶしぶ二枚のデザインを講義当日に書いて出した。

まずヴィオレッタの事を考えてみた。彼女は、娼婦ではあるが年齢が二十歳であった事、『椿姫』と言われ、社交界でも秀でた美貌とセンスの持ち主で、しかし心の内に青年アルマンとの純愛に目覚める情熱と幼さがあった事。あまり変わった発想ではなかったが、赤紫のベロア(本当はベルベットにしたい所だが)と、リボンのモチーフが頭に浮かんだので、それを取り入れてみた。

絵の出来もひどいものだった。といってもそれまでもファッションデザイナーよろしく、カッコイイイメージ画を描いていたわけではない。絵の始まりがマンガだったので、今も直すことができずマンガ絵だった。顔もいちいち書き換える時間がなかったので、「楕円にバッテン」で終わりにした。実に軽快さのない絵になった。

参加者にも面白い人が何人かいた。宝塚歌劇で衣装を作っていた人とか、会社などの制服をデザインしていた人とか、ワールドに勤めていた女の人とか。3人目の人は合唱団とかもやっていて「椿姫」の舞台の方へも出るのだとか。

まずは提出されたデザイン画を前に並べて投票を行った。その内ぼくと、そのワールドの女性の作品が最後に残り、再び多数決で決める事となった。

「ぼくのはいいですよ。」

と言って辞退する事にした。赤紫という色と、大きなリボンのモチーフなど、講師の先生は色々引っかかる所があったらしい。出来れば衣装も作りやすいものの方が良いだろう。特に事務局の人にも指摘されたのだが、インパクトがあり過ぎて他の衣装を食ってしまうという事であった。舞台である限りは、舞台美術なども含めてトータルにバランスの取れているものでなければならないと言う。ご尤もな話だ。強いインパクトは、そのままぼくの欲求を示しているのは確かであったからだ。

しかし参加者の方々のご厚意により、両作のデザインを取り入れたもの、トップを女の人ので、ボトムはぼくのを使うと言う、いいのか悪いのか判らない様な処置となった。ぼくが辞退したのは、今回採用されなくても、別の自分自身で衣装を作る機会があると思ったからだなのだが。なくても作るし。

《舞台衣装はなんでテカテカ?》

「舞台衣装講座」の講義を聴きながら、少し疑問に思っている事があった。それは、

「人目を引く服の素材として、サテン地にどの艶があって派手な色のものが良い」

という事だった。確かに人目は引くだろうが、低予算の舞台衣装で使われる安っぽい色の派手なサテン地の衣装を見て、ぼくは凄く不快感を覚えてしまったのだった。人目を引いても不快な色では駄目ではないのか?後サテン地というのは、表面に艶が出来るように織られているからライトが当たると光るのだが、光はその立体面に沿って集まってしまう事になる。もっと均一に光を反射する素材の方が良いのではないか?という事であった。

都合のついたメンバー達と待ち合わせて、手芸品のデパートみたいな所で素材を買い出しに行った。生地売り場にも「舞台衣装用」と言うコーナーがキチンと設けられていた。しかしそこにあるのは先に触れたような、化繊のサテン地やオーガンジーとかが主であった。普段に着るには「カタイ」生地だ。

サテンがどうのと言いながら、ぼくがその中から選んだのは青紫で玉虫のように色が変わる更に派手なものと、赤紫のオーガンジー、更に深い赤紫のリボン用のサテン地だった。本当は普通の衣料の生地を使いたかったのだが、それぞれの人を説き伏せる自信がなかったのだった。もともと派手な素材が好きなのもあるが。

《いきなり母校へ》

次の回からはその女性が「トップ班」、ぼくの方が「ボトム班」に別れて作業をする事となった。ぼくが一番興味を持って、そして一番困難だと思っていたのは「バッスル・スタイル」のスカートを製作する事だった。先にも触れたが、当時のものは竹などの「鳥カゴ」を使ったアレの事である。色々試行錯誤して作っている時間はないので、ぼくはいきなり5年ぶりに母校を訪ねる事にした。

オートクチュール学科の先生は高齢であったがその時も健在で、いきなり電話をしていきなり押しかけたのにも関わらず応対してくれた。こういう職場の人は「いきなり」にも強い。頼もしい限りである。

先生に今回の『市民オペラ』の話をしてデザイン画を見せたのだが、

「こっち(女性)の方にしたら?」

と、あっけなく言われてしまった。ぼくのは、ボトムに付いた大きなリボンのモチーフが重々しいという事だった。

ちょうどコンテスト用に作ったバッスルのトアルがあるという事で、見せてもらった。シルエットこそバッスルだったが、デザインは永野護氏がデザインしそうなSFチックなものだった。衿がお椀のようになって顔の周りを覆う感じの大きな物であった。スカートをめくると、幾重にも重ねられたオーガンジーのパレオを、らせん状のワイヤーを通したチュールレースのキャミソールが被さっていた。なるほど、これだったらわざわざ竹を熱して曲げたりしなくてもバッスルが出来そうである。

やはり独りで悩んでいるよりも学校に来て良かった。しかし昔あった校舎も、今や敷地内キチキチに建てられたエレベーター付きの大きな物に変わってしまった。授業は既に終わっていたが、課題をしている生徒達が何人かいて、ボディにピンを打ってトアルを組み立てていた。

通学していた時は短大を出てから入学して年を食っていたし、そのため色々あって、本来この分野にも興味がなかったぼくは、ここを地獄のように思っていたものだった。しかし今でも、課題とコンテストとバイトと遊びで、眠い目を擦りながら課題をやっている生徒達を見たり、生徒がいなくてもその汗臭さと熱気を感じ取れるこの学校の教室にいると、気持ちが高ぶるのであった。今でもボディが数十体と寄せられた教室の入り口を入っていく夢を良く見る。

先生に御礼と、自分がお気いに入りのチョコレートを手渡して引き上げてきた。次回の講義までに、衣装の試作品を作らなければならなかった。

《結局ドレスは…》

結局某「明るい地域を作る」団体の用事を済ませて、作業に掛かれたのは講義の前日だった。ボディにヴィオレッタ役の歌い手さんのサイズに合わせて、綿の入ったドミット芯を重ね、パレオの形をそのドミット芯にしろもでギャザーを入れピンで止めつけて作った。ウエストラインからその上にチュールレースを重ね、指でつまんではピンで留めてバッスルのシルエットを出していくのだが、これが凄い作業になって、店で始めたが出来ず、レースをピンで付けたままのボディを自宅まで押して持ち帰り、更に作業を進めた。

自分の手が遅かったのもあるのか、やってもやっても終わらず、夜も明けてそのスカートの形をピンで作っただけで講義の時間となってしまった。自宅へ帰る時は日が落ちてからの夜だったが、今度は白日の下でそのボディを押して、人の多い交差点なんかを渡ったりして講義室へ行った。周りの人に見られているのは判っているのだが、こちらは寝てないのでフラフラで気にする余裕もなかった。

実際はちゃんとトアルで作って、しろもで手縫いして組み立てたものを提出しなければない。全くそこまで出来ていないのだから駄目なのだが、とにかく「何かやった」事だけは知らしておきたかったのだ。まぁ熱意だけは通じたようだった。

しかし他の出演者の衣装も、そこまでの物にはならないという事で、結局「らせんワイヤー・チュールレース」の「バッスルスタイル」のドレスは作られる事はなかった。

《人とやっていくのは大変ね》

パレオは歌手の方の物を貸していただき、その上からフレアースカートを被せるという事で、後の製作は進められた。しかし始めの予定の「鳥カゴ」がボツになると、我「ボトム班」の作業は簡単なものだった。ウエスト85センチ(オペラ歌手の人って体格が…これなら俺でも着れるかも)のフレアースカートを作り、裾にフリル、ウエストからその上に大きなリボンとをつなぐオーガンジーのパーツを付けた。大方は実習時間で済み、後は「トップ班」のものとウエストラインで合体させて、「ドレス」にすれば終わりであった。

しかしその「トップ班」の方がもめにもめていたのである。リーダーだったその女性は、せっかくの機会だからと意気込んで、トップが組みあがる度にデザインに変更を入れてきたのであった。始めのデザイン画とは随分違うものとなって来ていた。ボトムの方が目立ってしまうと思ったのか、お腹の当たりにラインストーンの入ったブレドを付けたりしていた。色々指示はするが、彼女は仕事があるので作業は主婦の方々がする事となり、「自分でやって!」と怒り出してしまったのだった。

どちらも気持ちも解るが、班が違うのでぼくは関与しなかった。どちらかと言うと、ぼくも時間の許す限りベストな方へ手を加えていく性質なのだが、団体作業だし能力の違う人が集まっているのだから、総意に従ってやるのが良いと思っていた。ただ彼女が納得しないのならば、自分の手でやった方が良いだろう。

彼女は当日のオペラの出演者にもなっていた。モデルの経験とかもあるとかで、市民参加者の中では良い役を貰っていたらしい。同じ参加者のやっかみとかもあったのか、途中で「市民オペラ」への出演を降りてしまった。まぁ市民参加と言う事で、「せっかくの機会だから」とそれぞれ意気込んでしまい、その結果色々な事があるのだろう。ぼく自身にしても、時間があれば全て自分ひとりで製作をやってしまったかもしれない。ここら辺が団体作業に向いていない所である。オペラは無理にしても、ぼく自身が「市民文化祭」の舞台に立つ事はないだろう。今でも大変なのに、人間関係で疲れてしまいそうだ。

《思い過ごしも…》

色々ドタバタして、ようやく我々は一着の紫の玉虫に光る派手なドレスを縫い上げた。しかしここまで来てから、何か夢から覚めてしまったような現実を認識するのであった。担当の方が言っていたのは、

「舞台で着るかもしれない」

という事だけだったのだった。あの時ぼくは勝手に「絶対に採用させる」と意気込んでしまい、参加者の人達を引き込んでしまったのかもしれない。途中から主役のヴィオレッタからその友人の役の方へと変更があり、仮縫いもその方が試着したのだった。それを囲んで参加者全員で記念撮影をし、「市民オペラ」当日ロビーで我々の作品は展示された。

1999年1月31日の日曜日。「舞台衣装講座」の参加者は特典として割引価格で「椿姫」のオペラを観た。確かにあの舞台に我々の衣装が出ていたら、とんでもなく浮いてしまった事だろう。ぼく自身には、参加者の方々から「まぁそこそこ出来る人」ぐらいの評価はいただけた様である。ただあの紫の衣装に関しては、「品がない」と言われたりしている。

*なんとまだ続く

 

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