『市民文化祭』と演劇、 衣装とか色々<第1回>

《巻き込まれたら最後さぁ〜》

全国的各市町村が、「市民活動」を中心として「市民会議」なるものを支援し、「市民参加のまちづくり」なるものを展開しているのではないだろうか。少子化により、公立小学・中学校の教室には空室が増え、廃校となる所もあるが、これを高齢化対策も含めた「地域に開かれた学校」として子どもや両親と共に「生涯教育」として活用するとか。「都市景観形成市民会議」といって市内景観整備に協力する「市民を巻き込んだまちづくり」などが。

ぼく自信もとある「明るく豊かな活力ある地域を築く」団体に所属してからは、とかくこのような「市民会議」なる所からいくつもお声が掛かり、籍だけ置いているのもあるが参加していたりする。

『市民文化祭』と言うのはその様なものの一つで、要は市民会館などを市民文化活動の場として活用しようと言う事で企画されたものらしい。エルチ=カーゴちゃんが夢見た「文化の香り高い」まちにしたいのでしょうな。舞台演劇の役者、美術、照明、音響などのスタッフを市民の有志で募り、市民会館で『市民文化祭』として公演するのである。

それまでには『舞台技術講座』として、有志達はその希望パートの技術を学ぶ。『市民文化祭』自体は、昨年の12月で第10回目を迎えたらしい。『舞台技術講座』が始まったのは4年前から。実は市が見込んでいた預金の金利が下がってしまい、経費が大幅に削減された為の苦肉の策だと言う話もある。でも市民で手作りはとてもよいと思う。去年の秋頃から参加したこの『市民文化祭』での出来事なりを書くつもりが、子どもの頃の「演劇ごっこ」とか専門学校時代の「衣装」の事とかをついでに振り返っていると、ずいぶんな量のものになってしまった。書いている自分は面白かったのだが、読んでいただける方にはどうかは分からない。よければお付き合い下さい。

《まずは怪獣ごっこ》

人見知りをするクセに、本当は凄い目立ちたがり屋なのかもしれない。それまでも親戚とかの前で

「ショータイム!」

とか言って、マンガの主題歌を歌ったり、コタツ台の上とかでカトちゃんの

「チョットだけよぉ〜」

とか、「電線音頭」とか踊っていた。

ぼくらの子ども頃だったら、誰でも『怪獣ごっこ』をした経験があると思う。友達とやったのでよく覚えているのが「キカイダー01ごっこ」だった。同じ団地の子供達でやっていて、ぼくは途中参加だったから「01」とか「キカイダー」はやらせてもらえなかった。もっぱら「ビッグシャドウ」とか「ザダム(を独りで)」やっていたと思う。

友達のは画用紙かボール紙で、クレヨンで色を塗り眼の所を丸く切り抜いてお面を作っていた。工作が得意なぼくの兄貴は、弟の為に新しいお面を作ってくれた。色エンピツ塗りで眼の部分はブツブツの小さな穴が空いているもので、子ども心に「兄貴のお面の方が、機能的でカッコイイ」と思い自信満々で次の日に持っていった。しかしそのお面は「01」役の友達の弟に却下されてしまった。

「クレヨンなんて汚れるし、のぞき穴だってこっちの方がそれらしく見れるのに!」

と、口惜しくて自分だけ兄貴のを使っていた。今思うと、クレヨンの方が色が強く出るのでそれが原因だったのかもしれないなぁと思ったりする。

 

《舞台技術講座》

『舞台技術講座』が始まったのは4年前(1995年)である。その時のぼくは、貪欲にも「美術」「音響」「照明」と、全てのパートを受講した。しかし某団体活動の方にエネルギーの殆どを取られていたぼくは、何故か講座の日は寝不足な時が多く、恐ろしく基本的な事を理解した以外は具体的な機器とかの操作はチンプンカンプンなまま終わった。

講座のメンバーの方々とも特に打ち解ける事も出来ず、成果なく担当部署もなく前日のリハーサルのみ見学して「市民文化祭」公演当日も打ち上げを欠席し、その年は終了した。

《お話しなんかを書き始める》

ぼくがストーリーらしきものを書き始めたのは、小学校2年生からだったと思う。年に数回「お楽しみ会」と言って、クラスでグループを作って発表する時間があった。幼稚園の時から「シルバー仮面」とかクレヨンで書いてお絵描きが好きだったぼくは、この時何のきっかけだったのか『紙芝居』を作ったのだった。

最初に何を書いたのかは定かではないが、記憶に残っているのは全身の10パーツが合体する「マジンガーもどき」と、何故かブラックホールに吸い寄せられて「さぁどうなる?!」で終わって続きがない「ヤマトもどき」と、「刑事コロンボ」、「警部マクロード」とかだった。鉛筆書きのモノクロだった。いつからか「お楽しみ会」の出し物を考えるのが面倒な男子達がぼくのグループに寄って来て、「人気者になった錯覚」に陥って張り切っていた様である。

グループ結成時に配役だけ決め、ストーリーなどは当日の出来上がりを見るまでは他のメンバー達は何も判らず、ひどい時にはセリフ一つだけで終わってしまう子も居たりした。女子達が何をやっていたのかは、記憶にない(歌なんか歌っていたのかもしれない)。「太陽にほえろ!」の劇とか、ぼくのに対抗して同じ様なロボット物の紙芝居をやっていたグループもあった(この作者だった子は、後の小5の「お別れ会」でも同じ様なSF物の劇をやっていた)。

ある時、ぼくは次の「お楽しみ会」に向けて紙芝居グループを結成、その製作に取り掛かったのだが、思うようにはかどらず(多分本番直前から描いていたのだろう。…それって今も同じ)、紙芝居は完成せぬまま当日を迎えてしまったのだった。ここでぼくは急遽、シナリオのつもりなものを書き出し演目を変更、「刑事物の劇」をしてしまったのだった。本番、グループのメンバー達は何も筋書きも知らぬまま、監督気取りのぼくの指示に従って演技など全くない「刑事物の劇」をやったのだった。

これがおそらくぼくが一番最初に携った演劇らしきものだった。

《舞台衣装講座を申し込む》

「舞台衣装講座」が開講したのは、その2年だったと思う。「舞台技術講座」受講以来、担当部署から何度か他の講座とかのDMが送られていた。ロクに目を通す事もなかったが、この「舞台衣装講座」案内を見て「少しは自分の出番が来たか」と、参加を申し込んだ。前回の講座は、やはりアマチュアでその分野に詳しい人が仕切っている感じで、馴染む事が出来なかった。しかし服を作るのは製図も縫製も出来るので問題がなかった。自分のデザインした服が舞台に立ったりする事とかもあるかもしれない。ちょっとは面白くなりそうだ。

*ここまでお読みいただいた方へ

ありがとうございますっ。しかしこの「舞台衣装講座」参加によって、ぼくの生活に何か劇的な展開があったわけでも何でもありません。このまま淡々と続きます。よろしくお願いいたします。

《この子は七変化の女の子が好きなのよ》

それからも友達の音楽の時間に使うファイルに頼まれて「ゲッタードラゴン」をマジックで書いたり、「壁新聞」を作ったりしていた。エンピツ書きながら(といっても未だにGペンとかで描いた事は僅かしかないが)マンガらしきものを書き始めたのもこの頃。当時好きだった「グレートマジンガー」をパクって、ブレーンコンドルではなくパイルダーみたいなのにゲッター1の「スピンカッター」のような「回転ノコギリ」がついているのがドッキングするロボット物だった。

次男坊だったので、今の趣味の殆どは兄貴の影響である。「マジンガー」で言うと、兄貴が「Z」派で、ぼくは「グレート」派だった。「仮面ライダー」だと兄貴が「一号」で、ぼくは「V3」。兄貴は「渋め」で、ぼくは「派出め」好みだった。

このロボットは全身に意味もなく「回転ノコギリ」がいっぱいついていて、これを見て兄貴からは、「お前のはいつも飾りが多い」と「マジンガー・カザリツーケー」とか言って馬鹿にされていたりした。このロボット(名前忘れた)は「父の肩身」で、主人公は「父の敵」を取る為に「ワルモノ軍団」と闘うと言う、ヒーロー物の王道に沿った話だった。

「宇宙刑事」や「戦隊もの」、「イデオン」、「プロレス」と、兄貴が先に手を付け出してぼくが後から乗ってきたのだが、いつの間にやら兄貴は飽きるのが早いのか足を洗って弟は未だ付かず離れずの状態である。放映と同時にぼくは「ハニーお姉様」に心奪われ、母親も名前は知らないのだが、

『この子は、七変化の女の子が好き』

と親戚とかに話したりして、照れ隠しに怒ったりしていたものだった(しかし今は公でこのHPをやってる30代の俺って…)。

ようやく現実の女の子(笑)に目を向け出したのは小学5年生の頃だった。夏の水泳教室で一緒になった一つ上のお姉さんだった(やはりお姉様か)。それが理由だったのかどうだか、何を間違ったのか生徒会の役員になり朝礼台に立って号令を取ったりとか、放送委員会で「ヤッターマンの歌」を「お昼の放送」でレコードの回転数を間違えて流したりとかしていた。なんかしてるとその女の子に見てもらえると思っていたらしい。

名が知れたのは良かったが、このぼくの初恋は5,6年生の間で噂になる事になってしまった。これは次の中学生までしばらく続く事になる(しかしこの事をこれ以上書くつもりはない)。そうする内に今まではクラスの壇上だった発表の場が、学校の舞台で行われる事になってしまった。それは小6の卒業生を送る「お別れ会」の時だった。

《「いじわるばあさん」をやる》

卒業式の前、毎年体育館で生徒と先生達が集まって卒業生を送る「お別れ会」があったのだった。5年生のクラスは3クラスあって(いろは組)、ぼくは「い組」だった。各クラス何グループかに分かれて、当日の出し物を決めていたと思う。ぼくのグループはどういう経緯だったか覚えていないが「お芝居」をする事になったのだった。

演目を何にするか決める時に、当時母親は長谷川町子が好きで、兄貴がプレゼントした「いじわるばあさん」が気に入ったぼくは、これを強く推薦し(したんだと思う、きっと)決定してしまった。

誰がどの配役だったのかは覚えていない。多分、ぼくは総指揮かなんかに当たる事になっていて、主役の「いじわるばあさん」には当時のぼくの友人(男。ナオト)に決まった。原作から気に入ったエピソードを拾い出し、それをそのまんまコントみたいにやっていたと思う。内容も決まり、当日に向けて練習に励んでいたが、ここでとんだハプニングが起こってしまった。いよいよ本番を次の日にして、主役であったぼくの友人が「やりたくない」と言い出したのだった。

もともと主役を決める時も、作った声が「いじわるばあさん」に一番近かったと言う事で彼に決まったものだったのだ。彼自身は嫌だったのだろうが、本番を前にすると気恥ずかしくなってきたのだろう。仕方がないので、言い出しっぺのぼくが突如主役をやる事になってしまった。緊張の中、いよいよ当日を迎えた。女子が用意してくれたゆかたと、紙製のカツラ、眼鏡(この頃はまだ眼鏡をかけていなかった)を付けて、ぶっつけ本番で舞台に臨んだ。元々変身願望があるのか、衣装を着けるとすぐにその気になってしまった。

舞台の総指揮をする者が主役で舞台に出てしまっているのだから、進行はメチャクチャ(元々メチャクチャだったのかも)。セリフを覚えきっていないぼくは、あるエピソードのラストがアヤフヤで、舞台上でうっかり間を開けてしまった。「…どうしよう」と思い相手役の女の子に、

「あんたっ!!」

といきなり怒鳴った。そんなの筋書きにないので相手の子は驚いていたが、

「…これで終わりだったわよね?!他に何もないわよねぇ?!」

と舞台上で確認してたりしていた。

一つのエピソードが終わり、暗転となった時に、ぼくは控えている袖を間違えてしまった。焦ってゆかたの裾を捲り上げて反対側の袖にドカドカと舞台を横切った。すると客席から笑いが起きたので、調子に乗って何回かやった。なかなか評判は良かったと記憶している。

《新聞紙のスーツ》

小学生での「衣装」での思い出がもう少しある。それは6年生の時で、卒業式の後だったか、各クラスに別れてお母さん達と一緒にレクリエーションをしたのだった。その時のゲームで、お母さんと生徒代表チームに別れて新聞紙でモデルに新聞紙で作った衣装を着せ、その出来上がりを皆で審査して勝敗を決めるものがあった。

最初はモデルに選ばれた母親だったが、何とか断って新聞紙でスーツを作ったのだ。形は覚えていないがジャケットとタイトスカート、コサージュとかも作ってクラス中から称賛の声が上がって、ぼくは得意満面になっていた。しかしこの時担任の先生(男)もモデルで参加していて、子どもの作った新聞紙と紙テープで拷問のようにグルグル巻きになったものが優勝となった。

生徒が審査するのだから、お世話になった先生をひいきするのは仕方がない。先生も優勝が決まった瞬間その格好を破って飛び出し、「ヤッター!」と会場を盛り上げていた。仕事以外ではめったに人前に出ない母親が、こんなことに参加してくれたのはこれが最初で最後であった。チョットぼくには辛い思い出である。

中学、高校は、どちらかと言うと個人で作品を作る事に専念していた。エンピツ書きでノートに漫画を書き、高校では「リレー小説」とか「リレーまんが」何本もやっていた(しかしどれも完結しなかったなぁ)。

《トレーニング・モンタージュ》

「衣装を着るとその気になる」は、その後も少しある。ある美術系短大学生の頃、「ハロウィン・パーティー」をする事になり(当時ではまだ珍しい事だった)、当時S.スタローンに入れ込んでいたぼくは、「ロッキーW」をやろうと決めたのだった。

白いトランクスを買って来て、そこに赤と紺のリボンを「ボンド」で付けていた(今だったらちゃんと縫うのだが)。またその買ってきたリボンが包装用じゃなくて洋裁用だったので、百貨店で要尺分切ってもらった後に値段を聞いて真っ青になったりした。

そして何と、一ヶ月前からスタローンみたいな身体になろうと体育館で「筋トレ」を始めてしまったのだった。まずは脂肪を落さなければと食事も節制し、フラフラになりながらランニングとか、腕立て伏せ、腹筋背筋とかやっていたのだ。…ホントに馬鹿だった。

顔に殴られたメイクをして、星条旗ハットを被り、気合を入れて本番に臨んだのだが、気合を要れすぎて目立ってしまいオープニングの「開会宣言」をいきなり振られてしまったぼくは、「受け」を狙えずオドオドしてしまい場を盛り下げてしまった(その気になってないじゃないか)。

ちなみに今も友人の誰かさんは、この時4人揃いのツナギを着て「ゴーストバスターズ」をやって「ベスト・コスチューム賞」を受賞(といっても何も貰えない)していた(ねぇ、H君?)。

2回生の時は「ランボー2」だった。頭にはちまき、タンクトップに黒の作業着ズボンと安全靴(この時だけの為に買った)、ダンボール製の「ゴーストバスターズ」の「火炎放射リュック」を背負い、パーティー用スプレーマシンガンとゴム製サバイバルナイフを携帯していた。当然、この時も「筋トレ」をやった。…うん、馬鹿だ。

「ハロウィン・パーティー」が終わっても、我々はその格好のまま阪急電車に乗り車両一つを占領駅、に停車する度驚くホームで列車を待っていた人々の反応を楽しみつつ、、大阪梅田の東通り商店街の2次会会場まで大行進たのだった。

「ハロウィン」の次の日、そのままの格好で電車に乗って登校してきたら「昼飯おごる」と言われたので、ホントに月の寒空の下タンクトップで「ランボー登校」した。今は知らないが、この「ハロウィン」はしばらくこの学校の年間行事になったそうである。

そん時の写真見マス?

「マロニーちゃん」で「オズ大王」

その後マロニエ・ファッションデザイン専門学校に入学する(エラく学生やってました)。毎年3月と8月(だったと思う)に会場を借りて、学生の作品を発表するファッションショーを開催していた。3月は卒業制作でプロのモデルを使った本格的なものだったが、8月は運営を学生達が行い、どちらかと言うと「文化祭」みたいなものだった。

入学直後の年は、テーマが「映画」だった。一回生の「映画」は「オズの魔法使い」となった。全生徒がデザインを提出しなければならず、ぼくのものでは「オズ大王」と「ブリキ男(しかしモデルは女の子)」のデザインが採用になった。さすがに「オズ大王」は男のモデルでやらなければならず、ぼくがやる事になったのだった(まあ普通のだったらモデルは出来ないないだろうが)。

王冠と金サテンのカバーを付けた靴、同じく金サテンにキルトでステッチ模様を付けた肩掛けとマント、ベースに紙粘土を付けて作ったお面をグループで作った。

お面は、ステージに出る時顔を書くし、正面に出た時に派手なメイクをした顔を見せて驚かすつもりだった。初日はメイク用のものを使っていたのだが、どうも発色とかがおとなし過ぎてインパクトがないと、当時流行っていたプロレスのタッグチーム「ロードウォーリアーズ」を真似て「油絵の具」でメイクをした。

協賛メーカーから提供されたサテン地が、化繊で内側がコーティングされてあった(おそらくジャンパーやブルゾン用だったのだろう)為、汗だくになりながら(もともとステージ上は照明で蒸し風呂状態だが)2日間ステージをこなした。

以後自分の作品がショーに採用になった事はあったが、自分がモデルとしてステージに立った事はなかった。

一回生の時は、ベーシック・コースとして皆同じ内容の洋裁や服飾の基本を学ぶ。2回生からはどこも同じだと思うが、「インダストリー」「オートクチュール」「コーディネイター」とかの専攻でコースが別れる事となる。アパレルメーカーへの就職を考えれば、「インダストリー・デザイン」を専攻するのが普通と思われる。しかしぼくが2年目に専攻したのは「オートクチュール・デザイン」だった。

しかしどの専攻に行っても、「工業用製図」を中心とした「パターン・メーキング」が授業の中心となり、他の授業で色分けが変わる感じとなる。わざわざ「オートクチュール」を専攻したのは、実家が昔はオーダーをやっていたということもあるし、その服に興味があったからであったが、実質は「ジバンシィ仕立て」のジャケット縫製実習を行った程度の差であった。

おそらく就職状況を考慮すると、それまであった手工業的な実習の比率を大幅に減らさなければならなかったのだろう。「プレタポルテ」が工業用ミシンで縫われた、シンプルで軽快、直線的な美しさであれば、「オートクチュール」は、手作業を加えて縫われた重厚さと柔らかさのある服、という感じだろうか。「プレタ」は量産用で、「オート」はオーダー・メードである。よってその製作にかかる期間も工程も、「オート」の方が多く掛かる事になる。どの道残り2年間でマスターしようと言うのが無理な話である。

「オートクチュール」本気でやるならパリに行くのが良いだろう。やっぱり10年ぐらい掛かるのだろうか。残念ながらそれほど月日を費やす事がぼくには出来なかった。英語とかもあんまり出し、何より外人さんは苦手なのであった。このホームページを見ていただいてもお分かりになると思うが、ぼくは「ファッション」より「アニメーション」の方が遥かに好きな人なのである。ただこの服飾専門学校での日々は、自分の自力と視野を確実に高め、広げてくれたと感謝している。

そん時の写真1(オズの魔法使いと子供服)を見ます?

自分の「演劇」「衣装」に絡めた昔話をしていたら、随分と長いものになってしまった。実は本編にはいるのは次からである。

何と続いてしまう

 

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