
<リアル志向の裏にあったもの>
「ZGANDAM HISTORICA 00」に富野監督のインタビューが載っていた。「ファーストガンダム」から引継ぎ「Zガンダム」をTVで製作したのは、「アニメなんか観ていたら、お前達バカになってしまうぞ」というメッセージもあったらしい。当時「ジャパニメーション」の黄金期に狂っていた僕ら「アニメおたく」に対し、「現実って甘くないんだよ」という実社会への導入の様なものを示したのかもしれない。それは、当時の青かった僕にも効果はあったようである。「夢物語」を求めるのであるなら、「イデオン」やTV版「ZG」のラストは受け入れることは出来ない。
同じ事を庵野監督は、劇場版「エヴァンゲリオン〜まごころを君に〜」でやろうとしたのだと思う。過剰に変化し、切り刻まれる「綾波レイ」も、彼女に対する拒絶感を植え付ける為だった様にも感じる。しかしそれは、残念ながら効果がなかったように思う。弐号機と量産機の悲惨な激闘、リアルな特殊部隊の侵略。どれも非情に描いていても、描いてる本人たちが「楽しんでいる」ことが見えてしまうのだ。よって同じ様にこれ を観た「アニメおたく」の人達も、楽しんでしまった。もう「ヌード」だ「SEX」だとやってしまったら、それ以上「隠れたものを見せる」のなら「内臓」を見せてしまうしかない。もうそれも実際にコミックもアニメもそういう域まで行ってしまっていて、どんなに「可愛い女の子」が「虐待」されようが、「切り刻まれ」ようが「不快に思う」どころか「楽しんでいる」ファン層が出来てしまっているのである。
しかし富野さんがやろうとしたのは、「アニメの世界」に対して「恋愛感情」なりを持って「自分の世界」としてしまった「アニメおたく」への、「実社会への復帰」を促すことであった。実際は「ウソぱっち」の「アニメキャラクター」を、実際の人間の様に「挫折」させたり「優柔不断」にしたり「エゴイスト」にしたりして見せたのだ。庵野監督の場合は、自らの仕掛けによってより深くアニメに「依存」してしまった「アニメおたく」を、「復帰させる」作業をしようとしたのだろうが、本人の「おたく的素養」もあって、目的に至るまでの強いメッセージとはならなかった。後にTV版「エヴァンゲリオン」と同じ手法を用い、「アニメ依存」していく「アニメおたく」を生んでいく作品が量産され続ける現状となってしまった。
何年も前になるが、「イデオン」の同人誌を出していた人に「富野さんは恋愛の描写が下手だ」とか「恋愛経験があまりない」などその本に書かれ、僕は怒ってこのサイトでコメントを書いたことがあった。大体「恋愛」というのは、「ギジェとシェリル」の様に「お互いに独りだったから惹かれあった」、見方によっては打算的で、「お互いの傷をなめあっている」様なものではないだろうか。「友情」だって、「お互いに近い環境にいたから」群れていただけなのだ。ただそれに、どれだけ「愛情」が注げるか、育めるかは「人の力」だと思うのだ。だから僕は、「ギジェとシェリル」を惨めだとは思わないし、フォウだファだエマだと色々甘えているカミーユを、「都合のいい奴」とも思わない。どちらも、弱くていとおしい人達だ。大好きだ。「ある日イケメンの男が私の前に現れて…」なんて話を、富野さんに求めることが間違っているのだ(でも「ターンA」のハリーは、いい男だったと思う)。
ある意味ドラマにおいて「リアル志向」に進んだ「ZG」に対して、それまでのアニメよりはドラマチックであったとしても、「英雄戦記」的なストーリーであった「ファーストガンダム」を支持してきた世代が離れてしまったのだと言う。僕の場合は富野監督との「ファーストコンタクト」が「ガンダム」ではなく「イデオン」であったので、その様な事はなかった。故に僕にとっては、「ZG」が「ガンダムシリーズ」の中では「最高峰」なのである。「ガンダム」は「戦争映画」ではない。「エヴァンゲリオン」を観ても判るように、アニメーションで「戦争の残酷さや悲惨さ」は描けないのだ。ただ、この「擬似的な戦場」の世界で「浮き彫りにされる人間模様」が素晴らしいのだ。逆にこれを、「実世界」を舞台にした「実写映画」でやってしまうと、それは観賞に耐えられない作品になりかねない。同じ様に、富野監督の先輩である手塚治虫先生も、「可愛く愛らしいキャラクター」を使ってドラマを描いた。僕は子供の頃、「なんでこの人は、こんな可愛い絵でこんな悲惨なお話を描くのだろう?!」と疑問に想い、拒絶していた時期があった。恥ずかしながら、「手塚先生は素晴らしい!」と判る様になったのは、30代になってからである。
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