<不世出のトミノ=ブランド>

HISTORICA=01、福井晴敏氏のインタビューを読んだ。彼は「ターンA」のノベラズの執筆を、富野監督自身から依頼された作家である。ある意味、本人からも認められた存在な訳である。彼がインタビューで言っていたのは、「富野監督のスタイルは特異過ぎて、多くの観客の支持を得られるものではない。より判り易く描いて、理解されるものにして行くべき」という感じのものだった。映画「ローレライ」は東京でのイベントの際、庵野監督が「日本特撮の未来が掛かっているから」と言われたので(笑)その場でチケットを購入して観た。パンフレットにも「ガンダム的な世界を日本映画でやりたかった」と書いてあった。しかしヒロインのパウラの描写観ると、「エヴァじゃないの(笑)?」と思ってしまった。堤真一が演じる浅倉大佐が、「日本を裁く」とかシャアみたいなことを言っている事が「ガンダム的」なのだろうか。全シリーズ的な括りで行くと「ガンダム的」と言ってもいいかもしれない。しかし「富野ガンダム」かという見方で行くと、僕の眼には「富野ガンダムには見えない」のだ。

前回の「星を継ぐ者」の感想でも書いたが、富野監督の作品は「戦争を描いているのではなく」、「擬似戦争」という「ギミック」を利用した「人間ドラマ」なのだ。おそらくそれらの組織の対立構造みたいなものを、「企業戦争」みたいな現代劇にすることも可能なのだろうが、キャラクター同士の対決や、組織同士の抗争を具体的に設定して描くのは、かなり困難で無理が生じるものとなるだろう。「戦争」という視点で見てしまったら、ハナから「モビルスーツ」なんて有り得ないし、「エンジェルハイロゥ」や「地上を走る戦艦」なんて、戦術的に有効だろうか?これらは全て「ある抽象」なのであって、「新兵器案」ではないのだ。

僕の知る「トミノ遺伝子」を受け継いだという若手作家の作品は、ガンダム的世界観だけを頂戴して、実は「戦争マニア」「ロボットバトル=マニア」的な欲求を満たしているだけに見えるのだ。何度も言うが、富野監督は「政治」なり「戦争」なりに対して、何か正しい道を示す自説を訴えているのではないのである。その世界観の中にいる「人の生き様」をコラージュしているだけなのである。ヒストリカのインタビューの中で富野監督は、『依存』という言葉を使っているが、アニメーションの中から人類の生きる道の真理を学んだりとか、そんな大げさな『依存』をしてはならない。あくまで自分の人生を探る上での「サンプル」でしかないのだ。または日々の小さな楽しみを得る「娯楽」なのだ。

個人の意見としては、他の「ガンダム作家」や「トミノ後継者」的な人達の作品は、「外見は似ているが、中身は全然違う」のである。富野作品は、「ガンダム」でなくても各登場人物が記憶の中に鮮明に残っている。これ程まるで出会ったかの様にキャラクターのイメージが鮮明に残ってしまうのも、富野監督の作品だけである。それはおそらく、「手法ではなくクォリティー」の違いではないかと思うのである。

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