<トミノ=ブランドで良し!>

「ファーストガンダム」は、後の富野監督の作品よりは一般ドラマ的である。それ以降の作品には、放たれる言葉の意味を深く洞察する努力が必要になってくる。しかしその後に得れる感動や共鳴は、その有り方を導き出した視聴者だけのものであり、それを例えば「SEED」の初回から数エピソードに別けたりして判り易く描いたとしても、同じものになるとは言えないのである。

高校生の時であるが、筆者が「めぐりあい宇宙」をTVで放映されるので「観たい!」と親戚の家でゴネたのであった。「いい歳してマンガなんか」と伯母に馬鹿にされ、戦争嫌いの親父にも馬鹿にされた。しかし途中まで子供とその部屋で遊んでいたある親戚の叔父が、食い入る様に「ガンダム」を観始めたのだ。それからは、最後までその叔父は「めぐりあい宇宙」を観てくれた。つまり理解出来る人には、「ロボットアニメ」というオモチャなイメージが着いていても、そのストーリーの奥に描かれるメッセージなりを感じ取る事が出来るのである。

その独特な表現方法が「トミノ=ブランド」だというのなら、僕は「ブランドで良し!」と思う。ファッションでいう「ブランド物」というのは、本来は「着る者を選ぶ服」であり、誰が着ても美しくなるものではないのである。その特異性故に一つの芸術として完成しているのである。これを「ライセンス=ブランド」「スポーツライン」「ジーンズライン」としても、「オリジナルライン」程の高いクォリティーにはならないのである。俳句や短歌、詩などのように、その僅かな言葉に込められたものは、それを理解し想像出来る人にしか味わう事が出来ないだろう。これを「解説文」を読んで、同じ様にその感動を共有する事が出来るだろうか?

福井氏は「新訳Z 星を継ぐ者」を観て、「キャラクターの入口がない」と評していた。「入口」など不要である。「トミノ=ブランド」で重要なのは、キャラクターを追う事ではなく、その関わりの中で「何を見つけるか」なのである。「トミノ=ブランド」はそのまま残し、後に育った人たちが見つければいい。それだけの力と、意味のある作品であると思う。願わくばメジャーなアーティストなりが、「トミノ=ブランド」を評価して「公」にして欲しい次第である。あるヒットして映画にもなった某「刑事ドラマ」の監督と富野監督の対談があったのだが、その中で某監督は富野監督を「ロボットアニメの監督」として明らかに「格下」と認識しているような反応があった。僕はその監督に、「ガンダムを作ってみろよ!」と言いたい。「客寄せ」出来る俳優も使わず、その特異な世界観の中で「人間ドラマ」が描けるかどうか。実に「浅いのも」しか出来ないと、富野監督が「格下」でないことを痛感していただけるはずである。

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