ありがとう!ずっとずっとフレンズ、「がんばれ!どれみちゃん」

ふわり ふわり飛ぶ 青い空の上

やさしい風に乗り 小鳥の気持ち

マイナス25度のフロアである。二枚重ねの軍手だけでは、30分もすると手の指が動かなくなってしまった。足の指も、二枚重ねの靴下だけでは刺すような冷たさである。口から肺をチクチクするような冷気が、呼吸をする度に体内流れ込む。天上から下がった紐を引っ張ると、金属製の扉が重々しく開く。当時の僕にとっては、地獄か牢獄へ入るような気分であった。

体質の問題であるから、この現場での作業に合っているかいないかは、この寒さに防寒着を着て耐えるかどうかに掛かっている。本来は寒さに弱く、体質上手足が冷えやすい僕に、この現場が合っている訳ではなかった。ただ次の職場を探すゆとりもなかったし、この寒さを克服できれば、扱う荷物自体の重さはさほど負担にならないだろうと判断したのだった。

五月の頃だった。この時期、スキーウェアを扱っているスポーツショップもさすがに手袋や帽子などのスキー用品はなかった。毛糸の手袋や帽子、マフラーなんて、どこの衣料品店にもありはしない。しかし僕の身体では、毛糸の手袋でも手の指先が耐えられない。作業中何度もトイレに逃げ込んで、半分凍傷になりかけたように固まった自分の指を衿首から素肌に突っ込んで、温めつつも神経が痛む激痛にうめき声を上げていた。ようやく登山用品の店で高山作業用の用品を見つけ、帽子とアンダーグローブと二重構造になった手袋を手に入れた。帽子は良かったが、手袋はすぐに冷えてしまって使い物にならなかった。九月頃、ようやくスノーボード用のグローブを手に入れるまで、冷凍庫の中での検品時、冷えて満足に動かなくなった指で用紙に記入していた。靴も出来るだけ底が厚い物を探した。

あまり重ね着し過ぎると、体を締め付けてかえって血の巡りが悪くなって冷えてしまう。タートルネックのセーターにウインドブレーカー、更にセーター、防寒着と重ねて、ようやく少しはまともに動けるようになったのだった。今でもまだ完璧とは言えないが、始めの頃は他の人が30分で済ませる冷凍庫の集品作業に、一時間半ぐらい掛かってしまっていた。商品を乗せる鉄格子の電話ボックスのような大きさのコンビテナーを引っ張りながら構内を周る内に、寒さに耐え兼ねて何度も途中で動きが止まってしまった。冷え切った指先を少しでも温めようと、手袋の中で拳を握ったりしていた。

もうすぐにでも、この仕事を投げ出して逃げ出したくなっていた。身体が付いて来ないのに、ノルマを課したリーダーを呪ったりもした。しかし本来は、この作業が出来なければこの現場で仕事をする事は許されないのだ。「何故こんなことになってしまったのだろうか」、自分の不甲斐なさもあるだろう。その原因の当事者達を深く呪った。今の自分の現状に泣きたくなった。もう全てがない混ぜになって「もう逃げよう」と思った時、

ふわり ふわり飛ぶ 青い空の上

やさしい風に乗り 小鳥の気持ち

地図も道もなく とてもとても自由

世界中どこでも ひとっとび

本当にこの曲が、僕の頭の中に流れたのだ。楽し気に話す、はづきちゃんの笑顔と共に。

それ以来、冷凍庫の中で「どれみッチの歌」を歌いながら寒さに耐える事になった。一年半も続けていると、さすがに本来は向いていないはずの身体も、この地獄のような環境に慣れて来た様である。

それ以前は、某S急便の荷さばきをやっていた。

東京の商社をクビになってから、二ヶ月ほど川崎でやっていた事がある。全国でも物流が多いランクの現場だったらしいが、この大阪もそうらしい。しかし当時のような重い金属部品などの荷物はなかったのだが、やはり物流の量は半端ではなく、何より以前は20代で、今は30代である。中腰の姿勢でトラックから降ろされる荷物を、ベルトコンベアーのラインに乗せ換えたり、バーコードリーダーでデーターを拾う作業である。腰への負担が半端ではない。その記憶があったので、あらかじめ腰を保護するサポーターを購入し、初日に挑んだ。40代の僕より二回り大きいオジさんが、同じ日に入って来た新人だった。「これだったら三万貰っても割が合わない」と、そのオジさんはその日で止めていった。コックさんだったらしく、インターネットに付いて僕に色々聞きたがっていた。連絡先も教えなかった僕に、最後は笑顔で手を振ってくれたいいオジさんだった。

次の日からも、S急便の作業は想像を絶し、更に契約より一時間勤務時間を伸ばされて、夜勤から朝の7時頃には、疲労と眠気で半病人のような状態だった。どんなにキツクても、他より給料がいい事は確かである。しかし毎晩行くのが嫌で、毎日毎日出勤前にはモモちゃんやどれみッチのソロCDを聞いてから出ていた。作業中でも「ニッポン、チャチャチャ」とか歌っていると、少しだけ気が楽になるのだ。

しかしこのS急便も、社員のある人からは「大阪支店のホープ」とか評価を頂きながらも、バイトのリーダー格の若い連中には嫌われて、随分煽られて嫌がらせを食った。サポーターをしていても、腰の負担は凄く、結局それを理由に二週間で止めてしまった。以来腰痛持ちになってしまい、長時間の労働の時は、サポーターが必要になってしまった。

次の職場は、あのUSJ(ユニバーサルスタジオ・ジャパン)奥のJR桜島駅から歩いて15分の所にあった。S急便は、その二つ駅の前にあった。JRむめさき線と言う路線に乗るのだが、しばらくの間僕にとっては護送車に乗っているような辛さがあり、車体を飾った専用車両を嬉しそうに撮影する観光客達のカメラのフラッシュがうっとうしかった。

某ファッション専門学校時代、東京の商社、実家への帰阪と某「地域に活力ある社会を築く」団体での活動、再びクビになってからのフリーター生活と、この十五年間は僕にとって非常に苦しい物だった。しかしその間に、必ず僕の心を支えてくれた友人と、『空想生命体』の存在があったのだった。

失意の内に帰阪した僕に、最初に告白してくれたのは『早乙女優美』ちゃんだった。某「地域に活力ある社会を築く」団体で苦しんでいる時に、自分の『世界を変える』闘いをしたのは『天上ウテナ』で、その団体には存在しなかった『正義感』を満たしてくれたのは『帝国華劇団』だった。そして今、昼夜の肉体労働をしている僕の心を助けてくれたのは、『春風どれみ』ちゃんだったのだ。

しかし『おジャ魔女どれみ』は、他の作品よりも遥かに多くの僕の苦しみを救ってくれた。時にはせべ君の親子のふれあいだったり、ノロマでイジめられっ子だった僕をかよ子ちゃんにダブらせたり、あいちゃんの親族との和解であったり、はづきちゃんのお母さんとの話し合いだったり…。現実では、このようには上手くは行かない。実際には、こんなに色んな事をして、友達の為に頑張っている女の子達は存在しない。例えば自分の彼女に、「毎日冷凍庫に入って手が冷えているから、手を握って温めて欲しい」なんて言えない。

しかしたまたまとは言え、他に出会ったどの作品よりも『どれみちゃん』は、僕の持っている多くの心の傷や痛みの『一番近くに』来てくれたのだった。現実にいる人達は、そばにいてもそのほとんどを読み取ってはくれないのに、全然僕の事を知るはずもない小学6年生の『春風どれみ』ちゃんが、実に無意識に自然に、そっと僕の心の傷に触れてくれたのだった。たとえ「作り話」とはいえ、『いい歳したオジさんが』と馬鹿にされても、今この時期に『春風どれみ』ちゃんに出会えた『奇跡』に深く感謝したい。もうあの冷凍庫の中で、寝床の中で、何度「全てを終わらせて楽になろう」と思ったか知れない。そして本当に、この僕の苦しみの『いちばん近くに』来てくれたのは、現実の親族でも友人でもなく、『オタク文化』の代表格とも言える『ジャパニメーション』から生れた、『春風どれみ』ちゃんだったのである。

他の人が同じ様に『おジャ魔女どれみ』を全て観たとしても、おそらく同じ気持ちにはならないだろう。ただ、今の僕にとっては『どれみちゃん』との出会いは、それ程意味のあることだったのだ。僕にとって『おジャ魔女どれみ』は、今良く言われる『癒し系』とは違う。魔女見習いや子育て、お店の手伝いと、数々の体験を通して、彼女達は逞しく、健やかに成長して行く。視聴者を甘やかす作品では絶対になかった。『売り上げ至上主義』でただただ相手に「甘い汁だけを吸わせる」作品ではなかった。そんな『ヌルい作品』だったら、僕は最後まで観る事もなかっただろう。正に制作者の『高い志』が生んだ作品なのだ。

次回手作の『明日のナージャ』にも、僕なりに制作者の意図と努力が見える。もう既に「どれみの続編」を望む声もある。しかし僕としては、もう充分どれみちゃんには助けてもらった。

今度は「ナージャ」ちゃんに頑張って欲しい。

これからやりたい事が、もういくつも頭に浮かんで、時間が全然足りないぐらいだ。時にどれみちゃん達とも遊びながら、僕は自分の作品を作り続けていきたい。

本当にありがとね、どれみちゃん(笑)。

*文章中は、今のアルバイトの状況をひどく書きましたが、現在は大丈夫です(笑)。昼にしても、夜にしても「ヘチョい」僕を良く使っていただき、感謝しております。

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