<メディアの進化とゆがみ>

現代も、ネット社会の進化により多くの情報が手に出来る世界になったにも関わらず、「他人の痛み」も感じられない閉鎖的な感性の人が増え続けている。

 

その内「学校にダイナマイトを仕掛ける」高校生も、「ニューヨークに核爆弾を仕掛ける」ゲリラも必ず現れるだろう。人類が「ニュータイプ」に覚醒する奇跡が起きない限り(いや、起きたとしても)、確実に「人間は狂って行く」だろう。大事なことは、「自覚できるか」「無意識に流されるか」である。「ジャパニメーション」や「コミック」業界で量産される作品にも、「病んだ作品」が多い気がする。むしろ「狂って行くことに酔っている」作品もあるのではないだろうか。個人の印象で言わせて頂くと、「視覚的に健全である」作品が少なくなってしまったと感じる。この表現に抵抗を感じる人も多いと思うが、共感していただける方も必ずいると確信している。ゲームやコミックの「擬似世界」で、時には「風俗」などで、自らの欲求を一時的に処理することに対して、僕は否定しない。それは「必要である」。しかしそれが「一時的なもので済ませられる」事が大事で、これらの性格の作品が量産されることに「歯止めが掛からない」と言う事は問題なのである。

 

報道されるニュースにも、「通り魔」の様な「殺傷事件」、「学校内での傷害事件」も多発し、この手の話題は途切れることがない。最近では、教室に爆薬を投げ込む事件まで発生した。「いじめ」などの学校での問題は、特に僕ら以降の世代では必ず経験のあるものである。子供にとって「学校」は、「小さな社会」なのである。昔で言う「ツッパリ」というのが、ある意味子供たちの社会への自己主張であり、教師に突っかかって行くのはある意味「大人社会」への反発だったのである。校内の生徒たちから怯えられながらも、一目置かれていたのは、「社会に逆らっている」子だったからである。

僕の学生時代は、「校内暴力」の末期であった。市内では一番「柄が悪い」といわれ、当時学年で番を張っていた(しかし特に誰が決めたわけでもなかったが)子には、わざわざ市外の他校から「○○はいるか?」と一戦交えに遠征して来たりもしていた。隣の中学校と「決闘」もあったらしい。各校10名ぐらいケンカが強そうな生徒が声を掛けられ、近くの公園でやったという。僕は残念ながらそのメンバーに選ばれるほど(笑)ケンカが強い(というかしたことがない)子ではなく、むしろそんな環境の中で生徒会長に立候補して、それらに立ち向かおうとしていたのだ。しかし理由がかなり安直で、当時ハマっていた池上遼一の「男組」の「流全次郎」に憧れて、そんな事がしたかったのだ(笑)。当時好きだった女の子に、自分をPRする為でもあった(笑)。

一年生の頃から「終礼のC−INA(ここには実名が入ります笑)」と言われ、毎回議題を作っては延々と終礼ばかりしていた。「登校拒否」の男の子がいて、その子をしょっちゅう授業を中断させてはクラスのメンバー全員で呼びに行ったりしていた。あんまり僕が長い終礼ばかりするので、「ケツバンされるので、頼むからクラブに行かせてくれ」という生徒もいた。「ケツバン」というのは、「ケツをバットで殴られる」事で、当時の野球部はそうやって部員たちを教育していたのだ(上級生が勝手にやっていたことだろうが)。今から考えると、同じクラスになった子達にとっては、僕のやっていたことは迷惑な話であっただろう。その時の僕は、大真面目に「正しいことをしているつもり」だったのだ。しかし本当に「登校拒否」の子を学校に連れて来たければ、個人でも出来るはずである。「正しいことをしているつもり」の自分に酔っていたのだ。当時僕に関わった生徒たちは、おそらく一人として「いいことをしていた」とは言わないだろう。僕の個人的な思い込みで、周りを振り回していたのだ。大変申し訳ないことをしていたと思っている。

 

ワイドショーのコメンテイターも言っていたのだが、例えば「爆薬投入事件」にしても、やった本人の異常性ばかりがとりあげられて、彼がその犯行に至るまでの「いじめ」の実態にスポットが当たらないのは問題がある。今の「いじめ」というのは、僕達の世代よりも比べ物にならない程「陰湿なもの」らしい。それは一部の「問題児」が行うのではなく、多くの「普通の生徒たち」も参加しているものであるらしい。多くの生徒が関わっているから、「自分の責任」も問われかねないので「誰も白状しない」。教師たちにも処理が困難なものになっているのだ。僕の場合は「いじめ」に遭っていたのではないが、生徒会長とかの立場か、学年の問題児たちに校舎裏やトイレなどに何度か呼び出されたりした。しかしその度に先回りして僕を守ってくれた同級生がいたのだ。その子が当時の中学校では「ウラ番」的な子で、彼と1年生から付き合いがあったお陰で、中学3年間通じて「リンチ」に遭ったことはなかった。

この様に、僕達の世代なら「止めてくれる」生徒がいたのだ。今はおそらく、「止める勇気のある子」さえいないのではないかと思われる。むしろ「不思議な連帯感」で、その「いじめ」に「普通の生徒たち」まで参加してしまっているのである。犯行を実行した子の「異常性」を問題視するのは当然であるが、各生徒たちにもそれぞれ「異常な感情」が潜んでいる事も重要視しなければならない。

最近こんなことがあった。本屋でマンガの棚を見ていた時、高校生の男の子が入ってきて、同じ様に本棚を見始めた。その子は僕が棚を覗いているのにも関わらず、僕の眼の前に割り込んで本棚を見始め、目当てのものがなかったのかそのまま本屋を出て行った。見た目は普通の丸刈りの高校生だった。僕なら高校生の時だったとしても、前に本棚を見ている人がいれば、「その人の後ろを通って」か、「その人がその場を離れてから」その場所の本棚を見る。先の高校生は、「周りの人に気を配って動く」という「感覚がない」のではないだろうか。今こうやって原稿を書いているファミレスでも、子供がレジ前の棚にあるゲームを手に持って遊んでいる。買った物ではない。棚に置いてある「商品」なのだ。店にも迷惑だし、他の客にも不愉快なものである。しかしその母親は、それを気にするでもなく食事のメニューを見ている。もう親になる大人にも「モラルがない」のである。

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