「自分がいいと思う物を贈る」と言うのは、大事なことだとは思うけれど、実際は受け取る側になるとそれは上手く行かない物。一番印象に残っているのが、小さい時に貰った『ドクロ貯金箱』。箱のチョボにコインを置くと、ゼンマイがギ〜ギ〜鳴って棺桶から畜光性のドクロの手が出てそれを取るのだ。父が面白がって買ってきた物だったが、小さかった僕には恐くて、ギャ〜ギャ〜泣き出してしまった。慌てて父は、別の物を買い直した。

小さい時は、どちらかというと親戚とかから貰った物が多かったような気がする。

「ウルトラセブン」のソフビとか絵本とか「ちびっこレミ」のソノシート付き絵本とか。「おお牧場は緑」のレコードとか。歌もなんとなく今も記憶にある。今ちょっと知りたいのが『空中都市008』!御存知の方がいれば、資料など教えていただきたい。

「心がこもっている」と言えば、やっぱり『手作りのもの』が良いだろう。学生の頃は、やっぱり彼女が作った『きんちゃく袋』とか『手編みのマフラー&セーター』とかにはあこがれた物だった(つまり貰った事がないという事ね涙)。別にプレゼントではないのだが、例えば母が毛糸で端をかがり直した毛布とか、なんとなく愛着があって今も手放せないでいる。

進級のプレゼントなんかは、「参考書とセット」だったが「ちゃんと勉強する」と約束して『全怪獣怪人大百科』とか『ヒーローロボット大百科』とか『スーパーカー大辞典』とか買ってもらっていたが、当然「参考書」はほとんど使わず、それらの本ばかりに読みふけっていた(笑)。『超合金』とか『ジャンボマシンダー』とか、あんまり親は買ってくれなかったので、『ケイブンシャ』のそれらの本の裏表紙とかに「プレゼント」で載っているとあこがれていた物だった。今も経済的に余裕が出たら買ってみたい物である。後『ミクロマン』とか『サイボーグ1号』とか、『ロボダッチ』や『アトランジャー』とか。

今は、贈ってくれた人の『その人らしさ』が感じられる物がいい。プレゼントって、本当は値段とか『ブランド物』とかじゃなくって、『心がこもっている』事が大事なはずなのに、今やすっかり『メディア戦略』に乗せられて、そういう認識が出来る人は少なくなってしまった。「アベックで出掛ける」と言うのもそうなのに、もうそう認識している人も少ないのかもしれない。『心が大事』と再び気付くのは、随分歳をとって孤独を感じ始めてきた時になってしまう様である。

これまでと逆の事を書く事になってしまうが、僕は高校生の時に好きだった女の子にブローチをプレゼントしたことがある。ウチのお店の掃除や手伝いをしてもらったお小遣いで買った物だった。「バンドーム」の自転車の形をした物だった。今でも外出着でも付けれるものなのだが、彼女は気付いてくれているだろうか…。

☆「開いて!心のとびら」へ☆

 

○「僕は生涯現役宣言(笑)!」

「アダルトチルドレン」とかで、「大人になれずに社会から逃避している」成人として、僕らのような「オタク」は例に挙げられるケースが多い。そういう人もいるかもしれないが、職場などでの仕事がキチンと出来ていれば、後はどんな趣味であろうと「本人の自由」なはずである。それが職場なりに「悪影響」を及ぼさなければ。僕個人の事を言わせていただければ、その成果はともかく、某「明るい豊な地域を想像する団体」とかでも僕は「一番逃げていない」活動をしていると思う。あんまり周りの人達が「逃げる」から、僕なんかはある意味「尻拭い」をして自分の生活に支障をきたしているほどだ。ある昔の友人は、好きだった作品とかを「流行っていたから好きだっただけ」と言った。僕は「君の愛情って、随分うすっぺらいんだね」と心の中で言っていた。僕の「兄貴」は、中学校の教師をしていて僕が「いまだに現役」だと知ると、「その手の話はしない様にしている」だと。自分は大学生になっても「戦隊もの」とか見ていたクセに、「随分都合のいい事言ってる」なと思った。ところで子どもがある意味大人に心を開かなかったりするのは、大人が「大人の目線で見下ろして接している」からとも言える。僕の「兄貴」が担任となった、「オタク」な子はかわいそうだ。

僕は、今の心を持ち続ける為に、絶対に「空想生命体」達との関わりを断つ事はない。一般の人達には僕が「奇異」に見える事だろう。しかし僕の方から見ても「普通の大人」は「変に見える」のである。

「僕は、絶対に『普通の男の子』にはなりませ〜ん!」

☆『むつみの引退宣言1』へ☆

 

親が自分の子供の進路なりを勝手に決めてしまう、という事は良くある事である。自分のそれまでの人生を振り返って、「我子にはこうあって欲しい」と言う配慮なり願望なりが込められたものなのであるが、しかしここに「子ども本人の意向」が全く入っていない事が多い。「人生の先輩として」と、考えた「最良の策」と言う事もあるし、「無意識に」そうしてしまっている事もあると思う。「友達」と言うのもあるが、やはり「家族」と言う所は、その人の感情なりが一番ストレートに出てしまう所でもある。またそれに気付いていない人も多いだろう。

僕自身もこの経験は凄く多い。高校の進学先は親が決めた(僕自身がどうでもよかったというのもあるが)し、大学は美術系を自分で決めたが、文系の四大を受けさせられたり、受験勉強に関してもある教室を指定されたりと、何かと手が入った。結局美術系短大しか行けず、それから専門学校に通ったのだが、就職先も決まっていたりした。ある団体の理事長になれとか、市会議員になれとか、果ては「お前は誰とでも結婚していいわけではない」とか言う親戚までいた。まぁ期待されている事は嬉しいのだが、これは僕自身の素養とか、その後の人生なりを「本当に心配して」言ってくれている事なのだろうか、と考えてしまう。結局はその人達の「自己顕示」の代弁者みたいなものなのだ。

今でこそ「そんな事言った?」とかシャアシャアと言う人もいるし、色々言われる事も少なくなった。親戚だけでなく、僕の人生を「勝手に考えた」人は何人かいる。それらの干渉に巻き込まれ、抵抗していく事に僕の20代の人生はほとんど使われてしまった。ただ逃げていただけではなく、出来るだけ努力はしたつもりだ。実力がなかったと言う事である。しかし「実力がない」では済まされないらしい(笑)。僕の苦しみは今も続いている。加害者にはほとんどその「自覚症状」がない。本当に人の意識は恐ろしい。

色々愚痴ってしまったが、この様な事は誰にでも大なり小なりあることだと思う。「家庭」を持つとまたそういう事も出てくるだろう。今回の♪ちゃんの思い出のように、僕にも「親の人生を引き継ぐ」という意識はある。両親が苦しんでいる所も見ているし、その仕事にも誇りを持っている。素質を受け継いでいるという自覚もある。色々言ってきたが、両親には少なくとも「子供の人生に希望を持つ」権利があると思っている。ただやっぱりそれまでに何度か話して、お互いの妥協点なりを見つけておくべきではないかと思う。特に「子どもの価値観」に対して親は「無頓着」だったりする。親自信がそれに興味がなければ「くだらない物」で片づけられてしまう。それは他人でも同じ。今回では「MAHO堂の手伝いを止めなさい」や「英会話」がそれに当たる。しかし本当はその子自身が「何に価値観を持って生きているのか」が大事なのであって、時には親自身が望むものと全く食い違った物になってしまう事も覚悟しなければならないのではないか。親や他人の決めた物を背負って生きていく子の苦しみを、その人達は体験する事はない。全く知らずに何気なく彼らは子ども達にそう言うのだ。

「自分の夢は、自分の人生で達成して欲しい」

と言いたい。本来それが当たり前だと思うのだ。自分に出来ないと言うのなら

「自分に出来もしない事を他人にさせるな」

と言いたい。

その人が望んでいる事とは、「その人の価値観」の物であって、決して「人と同じではない」のである。この事を認識している人も、少ない様に思う。結局は「自分で手に入れる」しかないのだ。しかし一番身近な自分の子どもが、そのことを理解してくれている可能性はある。それも「話し合って」見つけて欲しいのだ。

☆「お母さんのわからずや!」へ☆

 

小学生の頃にもきっとあったとは思うのだが、今の僕には残念ながらその記憶がない。「秘密基地」とは言えないが、僕らが中学生の頃から大学くらいまでの間、友達の家の「はなれ」でダベっていた物だった。夜中もそこで過ごして、早朝には家に朝飯を食いに帰っていたのだ。いつも一緒に何かしていたと言うよりは、各々好き勝手な事をしていた。学校で成績アップの為に担任の先生が作ったくれた「努力ノート」を、絵が好きなのでエンピツ書きの「らくがき帳」にしてしまった友人がいた。当時「マンガ家志望」だったのが僕を含めて3人いて、何故かそのノートに絵を描きたくなって色々書いていた物だった。聞けば、今もその「努力ノート」は存在し、数十冊になっていると言う(笑)。

当時はその彼が中心になって色々やっていた。中学生の頃も鉛筆書きながら何作かマンガの合作を行っては中断し(笑)、高校の時は「マン研」の同人誌の原稿を書いたりと、数は少なかったがそんなことを続けていた。大学生の時にいよいよ出版社へ投稿しようと、ちゃんとGペンなんかも使って原稿を書いていたのだが、原作者である彼が何故か結末を考えずに途中で止めてしまったのだった。当時美術系短大の課題提出とかに追われて、いつも寝不足でフラフラしながら僕は手伝ったのだが、結果はともかく、投稿はして欲しかった。今でもそのことが悔いに残っている。

中学から高校の頃は確か「YMO」が流行っていて、その流れで「スネークマンショー」なんかも随分聞いていた。小林克也とか伊武雅刀とかが中心になって、ブラックなコントとセレクトしたミュージックを収録してレコードにした物だった。これを真似して例の「はなれ」で何作か吹き込み、カセットテープに保存していた。これが門外不出の問題発言ありまくりの「超身内ネタ的マニアックテープ」で、当時のメンバー以外には誰にも聞かせてはならない物だった。その彼は、映画特にホラー系が好きで中学の文化祭で8ミリ映画を撮ったりもした。僕も確か高校時別の友人に文化祭用のビデオ映画の話を書いた(内容を覚えていないという事は、大した話ではなかったのだろう)。しかしその友達のクラスでは当日「エロビデオ」を上映して、大問題になったと記憶している。

高校生時代、「バンド結成」も話しに上がった事があった。バンド名も最初にやる曲も決まって、僕はギターとか買ったりする金がなかったので「パーカッション」担当に決まっていた。しかし一度もそんな練習をした事がない(笑)。中でも「ドラム」を始めた子は、大学生の頃にはアマチュアの間では結構名の知れたドラマーになっていたそうなのだが、就職と共に止めてしまったと聞いている。ガンプラやったり、映画は初日の早朝に原チャリとかで並びに出掛けたり、当時の僕らの思い出である。

月日が流れて、僕も10年ぶりぐらいに創作活動らしき事を再び始めてみた。

僕のは「STAY GOLD」では気恥ずかしいので、「STAY黄銅」ぐらいでしょうか(笑)。

☆「ひみつ基地をまもれ!」へ☆

「死と向き合う人々」

たまたまではあるが、「美空ホーム」のような「入居方老人ホーム」を訪問する機会があった。僕が所属している、箕面商工会議所青年部で開催している「クリスマスツリー」のイベントがある。昨年よりこのイベントの一環として、市内に5軒ある特別養護老人ホームに、小学生等子ども達の手作りのクリスマスカードを届ける「クリスマスカード・プレゼント」を始めたのであった。まずこちらから企画を、社会福祉協議会を通じて各老人ホームに伝えてもらい、要望として出されたカードの枚数は合計約400枚。なにぶん初めての事で、どれだけのクリスマスカードが集まるか見当がつかず、我々青年部のメンバーも同じ商工会議所の女性会の方にも協力いただきカードを作っていたが、小学校では「総合学習」として取り入れていただいたり、カトリック系学院の小学校の協力を得て必要数のカードを完成させる事が出来た。

ご協力いただいたカトリック系学院小学校、当時の教頭先生のお話を聞いて、僕は目からウロコが落ちる思いがした。この学校のクリスマスには、「サンタクロース」が存在しない。そして、「そもそもクリスマスというのは、プレゼントを貰ったりするイベント等ではなく、例えばボランティアなどの活動をして『心を贈る』というのもクリスマスなのです。」というお話をいただいたのだ。大体キリストの誕生日を祝う日なのに、恋人達がプレゼントを渡したり、ホテルで夜を共にするなんて「全く何の関わりもない」(笑)。しかし僕達はコマーシャルなんかの擦り込みによって、12月に入ると何故かこんなことでソワソワしていたりするのである。

「ただカードを渡すだけではなく、何か交流会をして欲しい。」という老人ホーム側からの要望があった。全て周る事は、スケジュールの都合で行う事は出来ない。毎年一軒ずつ周る事として「交流会」を行う事にした。市内のある小学校を中心に、毎月人形劇やコンサートをおこなっているママさんグループの協力を得て、小降りのハンドベル「ミュージックベル」での「千と千尋の神隠し」の主題歌やクリスマスソングの演奏と「手遊び」、我々青年部メンバーも一緒にクリスマスソングを歌うなどの内容であった。

打ち合わせの為、一度その老人ホームを訪ねた。大きな吹き抜けがあったりしてかなり開放的ではあるのだが、ほとんどのお年寄り達は車椅子を使用していたりして、イメージは「病院」に近かった。車椅子で集合する為、全ての入居者の方々を一緒に集める場所がなく、3階と4階のコミュニティールームに別れて同じ内容のものを二回行う。お年寄りが集中していられる時間を考えて、交流会は30分が限界であった。身体の抵抗力が弱い為、当日少しでも風邪の者は感染を防ぐ為入場禁止等、老人ホームならではの取り決めがいくつかあった。高齢な方もある為、「クリスマスというものを知らない」方や、「クリスマスソングを歌えない方」もいるのだという。

いよいよ本番の交流会となった。双方のコミュニティルームに集まったお年寄りの方達は、時に奇声を上げたり、一生懸命歌ってくれる方もいたり、無関心な人がいたりと色々だった。最後にクリスマスカードを一人一人に配っていくのだが、涙を流して喜んでくれる方もいれば、中には正直渋々受け取ってくれた方もいたりした。入居者の代表の女性の方から御挨拶を頂いた。「私達は、この日の思い出を胸に、残された人生を生きていきます。」と。かなり気を使っていただいたのかもしれないが、これがおそらく入居者の方々の置かれている状況を表しているのではないかと思った。残された時間は限られていて、しかし終わりは見当も付かない。故に「一生懸命」であり、「無関心」であったり、「ワガママ」だったりするのではないかと。

更にその後、このコミュニティールームにも出てこれないで自分の部屋で寝ている入居者の方もいると聞き、我々はその部屋を回ってカードを手渡すことにした。「総合学習」の授業でカードを作ってくれた、小学四年生の女の子達が4人、交流会にも参加してくれて付いて来てくれた。部屋はもう「病室」と同じである。「お元気で」とか「長生きして下さいね」言いながらも、彼女達も我々も、その厳しい現実を目の前にしてショックで笑顔もこわばってしまったのだった。実はほんの軽い動機で始めた企画であったのだったが、今回の経験で「少しは意味のあることをしたのではないか」と思ったのだった。この老人ホームでの生活は、「必ず我々にもやってくる」のである。

ただ言っておきたいのは、「どれみッチのお話は甘い」と言いたいのではないのだ。おそらくスタッフの方々は、「現状を知っていて」「あえて」あの話を作ったと思うのだ。「美空ホーム」の人達の方が年齢が若い、というのもあるだろう。はせべ君の話やかよこちゃんの話等、「どれみッチ」には今までの「子どももの」の中では描かれた事のないギリギリのものがある。大なり小なりこれらと似た経験を持つ人達にとって、それらの話は本当に心地よく、救いになるお話なのだ。僕が他のジャパニメーションと違い、「どれみッチ」に心を100%開いている理由なのである。

☆「おばあちゃんズにはかなわない!」へ☆

「おばあちゃんゴメンなさい」

小学2年生の頃、一度母方のおばあちゃんを訪ねて熊本の家に行った事があった。行きは飛行機、帰りは寝台列車。その帰り道僕は腹痛を起こし、地元に戻って病院に行くと「盲腸炎」ということで手術をすることとなり、入院をしたのだった。

その時「仮面ライダーX」が、「キングダーク」とか出て来て話が盛り上がって来ている時だった。入院の為自宅のTVが見れない僕は、当時は「ビデオデッキ」なんかないので兄貴に頼んで「カセットテープに録音」してもらった。当時のぼくは、「X」の音を聞くだけでOKだったらしい(笑)。ところがその兄貴が間違って最愛の「キューティーハニー」お姉様のTVを録音したテープ(たしか「夜の火牡丹剣の舞」)に「重ね録り」してしまい、大泣きした思い出がある。

そう言えば、昔は「ドラマ編」とかでLPレコードとか出ていたけれど、「あしたのジョー2」「イデオン」「ガンダム」なんかを「カセットテープに録音」して良く聞いてましたよねぇ。今また「ガンダム」再燃で友人なんかも盛り上がっているのですが、何で僕がコンナに「ファーストガンダム」に食傷気味なのかと考えてみたら、「ビデオ」だけでなく、「カセットテープ」でも散々聞いていたからだったんですねぇ。

話が随分逸れてしまった。おばあちゃんの話である。今からもう20数年前になるだろうか、その母方のおばあちゃんが僕と家族と同居していた事があったのだった。母の兄達の家を転々として、我が家に来たのだった。結果、僕の部屋が「おばあちゃんの部屋」となる事となり、僕は兄貴とまた「一緒の部屋」を使う事になったのだった。普段は、ほとんどその部屋で専用テレビでTV番組を見ていた。「暴れん坊将軍」が好きらしく、よくその話を仕事から帰って夕食の準備に大わらわする母にしていたりしていた。自分の部屋は取られるし、変なうなり声は上げるし、独特な体臭はするし、動きはゆっくりでトイレとか行きたい時には、狭い通路にいたりしたら出てくるのを待たなければならなかったりと、僕にとってはほとんど「邪魔な人」でしかなかった。母も仕事と家事で、おばあちゃんの相手をする余裕なんてなかったはずである。

夕食でおかずに魚が出ると、いつも「魚の食べ方がヘタクソ」と僕は言われていた(今でもヘタクソ笑)。しかしたまに「ナイフとフォーク」を使う料理が出ると、ここぞとばかり「おばあちゃんもナイフとフォークの使い方がヘタクソ」とヤリ返していた。僕がおばあちゃんに行為を抱く時といえば、「お小遣いをくれる」時だ。たまに「和菓子」とか食べたくなるのか、その時は僕に「お小遣い」をくれて買い物に行かせるのだった。

2年ぐらいたっただろうか。おばあちゃんは神奈川の姉の家に行き、再び僕の部屋が戻って来たのだったが、しばらくしてまた我が家に戻って来たのだった。母も忙しい身だったので困っていたが、それでもおばあちゃんにとっては僕の母の傍にいるのが一番良かったのだろう。しかしボク達家族も、特別何かしてあげていた訳でもなかったのだった。他の家では、どんな生活をしていたのか少し気になる所である。

母も、おばあちゃんに何かしてあげられる事はないかと考えたのかもしれない。当時「おばあちゃんの知恵袋」という本科何かが流行っていて、「おばあちゃんの思い出や知恵袋みたいな話をまとめて欲しい」と言われた事があった。当時の僕は鉛筆書きで漫画を書いたり、文章なんかもよく書いていたが、この話は面倒だったので断ってしまった。おばあちゃん自身も、あまり乗り気ではなかったように思う。

僕の家から、小学校に行く通学路に100メートル程坂になった「桜並木」がある。毎年春になると、乗用車がその坂をノロノロ走って「桜見物」に訪れている。僕は母に頼まれて、おばあちゃんがその「桜並木」を見に行くのに付き添った事があった。多分年一回の2回だけ。特に会話をするでもなく、ゆっくりゆっくりエッチラオッチラ歩くおばあちゃんを見守りながら付いていくだけの事であった。おばあちゃんも立ち止まって桜をしげしげと眺めるわけでもなく、ただ黙々と坂道を登って、折り返して下ったいった。しかし僕がおばあちゃんに何か良い事をしたというのは、おそらくこれぐらいだったのではないかと思う。

再びおばあちゃんは、神奈川に戻る事となった。新大阪駅の新幹線を待つ待合室であったか、おばあちゃんは僕に「お小遣い」をくれた。別れる時にお金を貰ったりするのはあつかましいと、僕は一度断った。しかし「貰える時に貰っておきなさい」と優しく微笑んで、僕の手を握って持たせてくれた。そしてそれが、僕とおばあちゃんとの最後の会話になった。

今年、再び「クリスマスツリー」のイベントが近づいて来た。今度は僕の母校も老人ホームへの「クリスマスカード」を作るのを手伝ってくれる事となった。その見本を届ける時、今は寒さで何もない「桜並木」を通りながらなんとなくおばあちゃんの事を思い出していた。何かもう少し出来る事はなかったのかと、その時だけふと後悔したりしていた。そして今も、僕は両親から引き継いで当時の公団団地に住んでいる。4人家族(おばあちゃんも入れれば5人)で住んでいたはずの部屋は、雑誌、衣服、某団体の資料、コンビに弁当の容器、ペットボトル、お菓子の袋、スーパーのビニール袋、汚れた食器、ゲームソフト、CD、ビデオテープ、プライズグッズ等など、何故か震災跡のようにグチャグチャに散らかり足の踏み場もない有り様(笑)。おばあちゃんのいた部屋には「どれみッチ」のぬいぐるみが何人か転がっている。今もそこにおばあちゃんの霊がいて、怒っていたりはしないかと気になったりもしている(笑)。

☆「おばあちゃんズにはかなわない!」へ☆

 

「おじいちゃんが倒れた日」

先に書いた事もあったと思うが、父方のおじいちゃんが「脳内出血」で倒れ、入院した事があったのだった。親族は早々に入院先を訪れ、僕も色々某団体のヤボ用を片づけて見舞いに行った。途中お花なんか買いに行くつもりで、「鉢植えは『そこに根を下ろす』と縁起が悪い」と話しも聞いて切り花にした。少々ボケているが、意識はあるらしいので退屈だろうと俳句の本なんかも買っていった。その時のおじいちゃんは深く眠ってしまっていて、いくら看護婦さんが起こそうとしても起きず、僕は花と本だけを置いて帰って来た。

ただとても気になってのは、他にも親族が見舞いに訪れているはずなのに、花も果物も何寝室に置かれていなかった事だった。

何か僕の勘違いだったらいいのだが。

退院の時、僕の家におじいちゃんからハガキが届いた。

「○日退院します」と。かなり形状が崩れた文字だった。

後におじいちゃんは看護ベットで寝たきりになり、意識はあっても会話はほとんど出来ない状態になっていた。僕が田舎に訪ねていくと、ただ僕の手をいつまで握り続けていた。もう僕と判っているのかどうかも判らない。それが、僕とおじいちゃんの最後の対面だった。次に僕が田舎に帰って親族と会ったのは、おじいちゃんのお通夜の時だった。

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「思ってはみても」

今回のお話で、僕が「どれみッチに手を温めてもらった」錯覚に陥ってしまったのは、夜勤で冷凍庫作業のバイトをしている事が原因である。それもあるのだが、はづきちゃんの立場に同調してしまったというのもあるのだ。東京で商社をクビになって、「本来の自分の夢」を追おうと決心した時、本当は「自分の為」の生活なのに苦しくて苦しくて仕方がなかった。その時僕は始めて、自分が「みんなで幸せになりたい」人なのだと言う事が分かったのだった。

地元と実家に戻ってからも、某「地域に活力ある社会を築く」団体に入ったりしたのだが、これも本来「自分が希望したものではなかった」。その中で自分が役に立てる事、自分の身に付ける事を模索し、そして「周りの人達の為」と思い頑張って来たつもりだった。しかしそれは、僕の思い込みだったのかもしれない、その手法が間違っていたのかもしれない。僕の思いは、ほとんどその対象となっている人達に通じていなかった事に気付く事になったのだった。「いつか気付いてくれる」と言うのは、「無い物ネダリ」だった。悲しいかな、人は「オールドタイプ」なのであって、「ニュータイプ」でも「エスパー」でもないのだ。やはりはづきちゃんのように、勇気を持って自分の意思を伝えて、時に周りと闘いながらやっていくしかないのだ。どんなにこちらが苦しんでいても、骨を折っていても、通じていなければ他の人にとっては「ムダなもの」として、「バッサリ切り捨てられる」だけなのだ。同じ様に、僕自身も気付かぬ内に「人の厚意」を踏みにじっているかもしれない。そう考えると恐ろしくなってしまう。

僕が「どれみッチ」に入れ込んでしまったのは、ある意味身近にはない「キレイなもの観たさ」があったからだった。今のように苦しんでいなかったら、「どれみッチ」を観る必要もなかったかもしれない。町中、駅のホーム、電車の中などで座り込んだり、大声で「バカ話」をしているどれみッチと同世代の女の子達。時に車両を移動してしまうほど「拒絶反応」がひどい僕にとっては、はづきちゃんの眼鏡のレンズに落ちた涙が宝石のように見える。

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「盛り下げちゃうかなぁ…」

しかしこの告白の後、おそらく「どれみちゃん」には「世界一不幸に美少女」と再び思う出来事が待っている(笑)。きっと泣きながら元MAHO堂のみんなに電話して、「やれやれまたか」と慰めてもらうに違いない。最後に「どれみちゃん」を救うナイトは、「こたけ君」である。どれみちゃんを幸せにしてあげてね、こたけ君!

ありがとう!ずっとずっとフレンズ「がんばれ!どれみちゃん」

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